2015夏期『上智大現代文』第4講宇野邦一「反歴史論」要約&復習問題

【要約】

思考が脅かされている。ただその思考を、個人的行為、あるいはある純粋な行為、過程、運動と見なすことは自明ではない。たしかに思考は私の外からやってくる要素だけではなく、私の中の様々な要素によって脅かされてきたが、その「脅かし」について考えようとすると、思考そのものについてもう一度考える必要があり、その「思考」は何らかの定義によって思考を限定することができない地平で、あるいは思考が限定的な何かに従う以前の地平で、問題にされなければならない。またそれは同時に思考の内部と外部の境界や、配置や、関係を捉え直すことでもあり、それはまさに哲学の領分であるが、ただ哲学を援用するだけではその「思考を脅かすもの」を退けることはできない。なぜなら哲学的に考えることも思考を限定することであり、思考を脅かすものである以上、思考そのものが脅かされ、疲弊し、変質していくさまを「本来的な思考」に照らし合わせることが不可欠である。

 

《復習問題》

テキスト本文49行目に「人間は本来考えないものであったのではなく、本来考えるものであり、本来的に考えるものであった」とあるが、「本来」考えるということ「本来的に」考えるものであったということの説明として、最適なものを次から選べ(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

 

a 古代ギリシア人の思考を「本来的」と形容し、人間がもともと生き延び、行動するために思考することを「本来」で表した。

b 例外的にしろ、人間は思考する存在であることを「本来」で示し、疲弊し変質する前の思考のあり方を「本来的」と表現している。

c 思考は、元々は純粋な過程、行為、運動であったことを「本来」で示し、人間は歴史的に考える存在であることを「本来的」で表した。

d 人間は例外的にしか、思考する存在ではなかったことを「本来的」で示し、そうした思考が脅かされていることを「本来」で表した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》

b

2015夏期『上智大現代文』第3講佐藤信夫「レトリック・記号etc.」要約&復習問題

【要約】

私たちの不断のことばづかいのなかには、人間の身体に関する語彙の比喩的な用法が多い。私たちの言語の数は有限であるのに対して、自然界のものごとは無限の様相を見せるために、人間は自分の身体ないしはそれに準ずるものに優先的に配分した語を、森羅万象を表現するのに比喩的に流用したのである。ところでそういう意味で、「目」は鼻や口や耳と同様に明らかに身体の一部であり、比喩を提供する場合が多いのだが、それに対して身体の延長とも言うべき「視線」は、視線以外のものごとを言い表すために比喩として用いられることのきわめてまれな語であり、みずからの生態を表現するのに、ほかのことがらに関わることばづかいを比喩的に借りたがるようである。

 

《復習問題》

テキスト本文24行目に「近ごろ私は『視線』にいささか興味をいだいている」とあるが、その理由として最も適当なものを次から選べ(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

a 吉行淳之介の小説「手鞠」が「私」を感心させる表現を含んでいたから。

b 身体の延長である視線も、身体同様に比喩の有力な供給源だと考えたから。

c 身体の延長であるのに、比喩になるより自らを表すのに比喩を借りたがるから。

d 「視線」が身体に属するのかそうでないのかに非常に関心が持たれたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》

c

2015夏期『上智大現代文』第2講松井邦子「『科学』の語りとその真理性」要約&復習問題

【要約】

患者にとっての病気とは、医科学的認識に捉えられる以外のものを、人生や生活の多様性から見て、広範囲に含むものだが、それが問題にされる場は専門技術体系の複合組織のひとつである医療機関である。その結果、患者にとっては病を包括する病気が問題であるのに、医師側は医学的認識に把握される「病気」しか問題にしない。こうした認識のズレは両者の間に軋轢が生じる原因になるが、たとえ患者が苛立って医師側を批判しても、医科学という真理に基づいた医師側にとってそれは、感情論、あるいは医科学的真理に対して真偽の対象ですらないものである。社会構成主義は、こうした現状を受けて「真理」を語る医師たちの科学的言説自体が、患者の語る感情論の言説と同じように、言語で構成された世界解釈の一つに過ぎないと考えた。医師の語る「真理」とは、医学を学び医学のルールを体得した者しか見いだせない「現実」であり、それは「ありのままの現実」ではなく「医学共同体における現実」として構成されたものでしかないのである。

 

《復習問題》

テキスト本文70行目「『がん』が『がん』と呼ばれる必然性はなくなる」とあるが、その理由として最も適切なものを次の中から選べ(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

 

a 「丸い塊」を「がん」と呼ぶのは、あくまでも医学共同体における言語の共同体的作用に過ぎないから。

b 「がん」という言葉は独立した意味を持たず、「がん」以外の言葉との関係によってはじめて意味を持つから。

c 「がん」という言葉は、突起のある丸い塊として見いだせるものを認識する能力があってはじめて使えるから。

d 医学を体得した者でなければ見いだせない「がん」は、その他の人にとっては「丸い塊」でしかないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》

a ( bは講義で説明した問4と同じで、「『がん』が『がん』と呼ばれる必然性はなくなる」の言い換えでしかなく「理由」になっていない。)

2015夏期『上智大現代文』第1講岩井克人「21世紀への設計図」要約&復習問題

【要約】

現在の情報資本主義下においては、全ての人が何らかの専門家ともいうべき状況が作り出され、契約関係においても必然的に知識や能力の差が生じ、信任関係が不可欠になる。日本において新たな市民社会像を構築するには、国家に消極的ではない、信任関係の法的な規制という積極的な役割を与えることが必要である。

 

《復習問題》

テキスト本文23行目「西欧的な市民社会の冷たさ」とは、文脈上何を指すと考えられるか。次の中から最も適切なものを選べ(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

a 固定的身分関係

b 信任関係

c 分業化

d 高度情報化

e 契約関係

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》

e

2015夏期『青木邦容のハイレベル現代文』第5講饗庭孝男「中世を歩く」要約&記述解答&補足解説&復習問題

【要約】

寺へ参る、その時間的距離は「私」にとっては〈聖なるもの〉に近づいてゆく心の深まりの距離であり、求心状態が作られる過程として大切なものである。またその過程は「私」のとって自己を低める行為のことでもあり、寺に参る際には「私」は自分の心の不完全さや愚かしさを絶えず身に染みて感ずる時に、どれだけ自分を低めることが出来るだろうかと考える。自己を低めることで見えてくるものは、自己と絶対者との関係、あるいは自己と世界との関係であろう。ルネサンス以降は自己を高めようとした時代だったが、中世は自己を低めるということが芸術作品にも及んでいた時代であり、自己を低めることによる敬虔と畏れの心が、逆に美しい物を作った時代であった。

 

《問1》ア ひな イ せんえつ ウ けいけん キ がらん

《問2》46ページ参照

《問4》(講義で説明済み)

寺に向かって歩む際に、自らの心の不完全さ愚かしさを感じ、自己がいかに低い小さい存在であるかを知る。

 

【解説補足】

《問3》

A

❶㉗で一文にした後、「このようなこと」=不足情報を明らかにする。

❷「このようなこと」=「戦前の~合わない」を指しているのだが、この中に空欄Bが含まれてヒントになりにくい。

❸そこで、空欄を含む一文と対応する箇所を探すと、「いまだ[ A ]をもたない私」≑28行目「私は敬虔な信者のように心むなしく神仏にぬかづくわけではない」という対応箇所が見つかる。

❹ここからAには「信仰」が入る。

B

❶空欄Aの時と同様に考えると、「私」は「[ B ]的で教養主義的な古寺巡礼」が「合わない」という意味を、この箇所が作っていることが分かるが、私の「古寺巡礼」は、25~26行目に説明がある。

❷そこには「美意識の問題ではない」とある。ということは、「私」が古寺を巡るのはそれらが「美しい」からではないということになる。

❸そこから「審美」が選べる。

 

《問5》

❶35~36行目を㉗で一文にして考え、対応箇所(神経衰弱式(笑))を探す-近くにないので㉒扱いで、一端保留にし、9段落以降を探してみる。

❷すると45行目に「『個性』や『自我』の解放に生きた無邪気な近代への強い反省」という表現が見つかる。

❸元の35~36行目との対応をチェックすると、「明治以降」≑「近代」、「あまりにも~求めすぎたり~願いすぎた」≑「反省」、「『自我』の確立」「『個性』の伸長」≑「『個性』や『自我』の解放」となってマッチしているのがわかる。

❹そしてそこから設問にある筆者の「揶揄」≑「からかい」と思われる言葉を探すと「無邪気」という言葉が見つかる。

❺つまり、近代以降人間は38行目「(神などに)生かされている」ということを、つまり「中世の心」(64行目)を忘れていることを、あまりにも(54~55行目)「自己と絶対者との関係、あるいは自己と世界との関係」を忘れてしまって、「自己(近代的自我)」を賛美しすぎている点を「わかってねえ~な~」という意味で「無邪気」だと表現したのである。

《問6》

❶《問5》と強い関連を持つ設問である。53行目を㉗で一文にして考えると-

中世という時代-自己を低めようとした時代

         VS

ルネサンス以後(近代)-自己を高めようとした時代

という関係が表わされていることがわかる。

❷ということは傍線部は近代以後のことを説明した35~36行目と重なる(対応)。

❸制限字数が10字程度なので、35~36行目は多すぎる。したがってさらに対応箇所を探すと、問5で見たように、これらは45行目に説明がある。

❹そこに「『個性』や『自我』の解放」という表現があり、これは12字であるので「10字程度」に当たる。

 

《問7》㊟「合致しないもの」を選ぶ。

イ 筆者は6段落で「敬虔な信者」ではないと言いつつ、自らは「自分を低め」るという「中世の心」と同様の感じ方をしている。〇

ロ宗教的創造物、つまり古寺とかを美的鑑賞するのに敬虔な心は必要ない。6段落で筆者は古寺を巡る理由を「美意識の問題ではない」と言っている。×

ハ「地上の距離と歴史を超えて」というのは、つまり「時空を超えて」(自己を低める心が存在する≑普遍的)ということである。筆者が本文で「自己を低める」経験を外国でも経験したり、あるいはポール・クローデル(17行目・33~34行目)の言うことが、道元の述べたこと(32~33行目)と「つながっている」ということからも判断できる。〇

ニ 5段落に書かれている。〇

ホ自己を低めることは、「自己を真空状態にするにしたがって神がそこに入ってくる」とも表現されており、また63行目に「自己を低めることは敬虔であり畏れである」ともある。〇

ヘそもそも筆者が古寺を訪れて感じるのは29~31行目にあるように「自分の心の不完全さや愚かしさ」であり、それを「たえず身にしみて」感じる以上「自己陶酔」はあり得ない。×

 

《解答》

問3 A ロ B ロ

問5 無邪気(な)

問6「個性」や「自我」の解放

問7 ロ ヘ

 

《復習問題》

テキスト本文61行目に「まるで自然の『物』のように」とあるが、これはどういうことか。次の中から最も適当なものをひとつ選べ(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

①自己を低めつつ孤高をたのんで

②自ら充足しつつ調和を保って

③輪郭の確かさを誇示しつつ

④制約を退けつつ自由に

⑤個を滅却しつつ超然として

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》

⑤(自我、個性、それを作った人は「忘れ去られて」、まるで絶対者(57~59行目)のあわれみによって作ることが可能になったように、という意味)

2015夏期『青木邦容の基礎→標準現代文』【補問】塩沢由典「人はなぜ習慣的に行動するのか」補足解説

㊟要約及び《復習問題》はコチラ (←クリック)

【問1】53~54㌻参照

2015夏期基礎→標準塩沢由典_ページ_1

(図A)

【問2】2015夏期基礎→標準塩沢由典_ページ_2

①傍線部Aの内容そのものではなく、傍線部Aによってもたらされる事態についての問い。

②したがって図Bのように設問に対応する箇所を傍線部以降に探す(図に記載は無いが㉒に当たる)。

(図B)

③②からアウトラインを導く→「信号の種類が多いと情報をうまく処理できない」→②が正解。

【問3】

①(問2解説中)図Bにあるように、傍線部Bは直前の内容を含んでいる。

②どうして「いつ、どの信号に注意すべきか」ということが「重要な知識」なのか。

③図B中に記載されているように、12~13行目(★)へ移動する→(図A参照)

④コアはその「知識」は「経験に依存し、また学習されるもの」だから。→①しかない。

【問4】

2015夏期基礎→標準塩沢由典_ページ_3(図C)

2015夏期基礎→標準塩沢由典_ページ_4(図D)

①図Cにあるように傍線部Cはまず47行目へつながる。

②選択肢②は「無意識」で×。

③傍線部Dは⑪及び㉒から図Dの61行目、63~65行目、69行目といった繰り返される内容につながる。ここで得られるコアは「習慣的行動が、いくつかの動作が組み合わさった複雑な体系、諸動作が組み合わさったもの」であるということ。

④選択肢にコアを探すと⑤しかない。①は「一つの動作」③は体の諸器官が複雑に動くということが言いたいのでは無い④「単純」-といったところが×。

【問5】

2015夏期基礎→標準塩沢由典_ページ_5(図E)

2015夏期基礎→標準塩沢由典_ページ_6(図F)

①図F及び図Eにあるように、傍線部Eは93~94行目(★★)や78~80行目(★★★)につながる。

②要するに習慣的行動はモジュール、つまり我々の行動を形作る「部品」なので、これが多ければ多いほど(レパートリーが多ければ多いほど)、行動の全体が拡がりを見せるということだ。

③②で示したコアを持つものを選択肢に探す。①なし②「それぞれの目的を持つ習慣的行動を組み合わせる」=モジュール、レパートリーを組み合わせる、「人間は新たな課題に対処する行動ができるようになる」=今までできなかったことができるようになる=行動の全体が拡がる→正解。

④その他の選択肢は-③なし④「目的に合わせて習慣的行動を組織化」するのではない。86~90行目の内容にも合わないし、そもそもコアは、(一つの目的を一つのモジュールが持っていて、そうした)モジュールを組み合わせて行動を拡げるというものである。選択肢前半の「状況に~分析する」も無関係。⑤「多数の習慣的~これまで経験したことのない事態に対しても行動を起こせる」はOKなので迷ったかもしれないが、そういう場合は㊱を使って二つの選択肢を比較し、まず傍線部と照らし合わせる。

⑤傍線部内「習慣の原理」に合うのはどちらか?⑩によって繰り返しに注目してきたが、11~12行目にあるように「偶然の探索で」拾うのが難しいから73行目「最適解ではないが、経験に裏打ちされた実行可能解」に従うのである。よって⑤は×。

【問6】(要約も参照)

①9段落に合致。選んではいけない。

②5段落や7段落の内容に「合わない」のでこれが正解。

③選択肢①と同じ。

④10段落に同一内容がある。選んではいけない。

⑤17段落に同一内容がある。選んではいけない。

⑥経済学の考え方は「習慣的行動」とは異なる。19~20段落を読めばわかる。

 

【解答】

【問1】㋐④ ㋑⑤ ㋒② ㋓① ㋔②

【問2】②

【問3】①

【問4】⑤

【問5】②

【問6】②⑥

 

2015夏期『青木邦容のハイレベル現代文』第4講金子郁容「ボランティア もうひとつの情報社会」要約&補充問題

【要約】

ボランティアの報酬とは、自分だけでなく誰か他の人の力によって与えられた、自分にとって「価値がある」と思えるもののことである。つまりボランティアの報酬は、それを価値ありと判断するのは自分だという意味で「閉じて」いるが、それが相手から与えられたものだという意味で「開いて」いる。その意味でボランティアの「報酬」は、「見つける」ものであると同時に「与えられる」ものであり、それが「成立」するには、ボランティアの力と相手の力が出会う必要性がある。ボランティアの「不思議な関係」の秘密は、こうした出会いの中で助けるつもりが助けられたと感じ、与えているつもりが与えられたと感じる、こうした「つながり」にある。またボランティアは、自分が始めたネットワークのプロセスを誰かが尊重し、呼応してくれることで、はじめてその人とつながりがつけられるという点で、「つながりのプロセス」における「相手」は、通常のビジネスにおける取引関係や友人関係とは異なり、はじめから決まった特定の人ではない。その意味でもボランティアの関係性は不思議なものである。まただからこそ、ボランティアは、行動の過程で次々と予期しない、色々な人と関わることになり、そのプロセスが世界規模で展開する可能性も秘めている。

 

《復習問題》

テキスト本文83行目で「世界キボのネットワークがつながることになる」とあるが、ボランティアの行動はどうして「世界キボのネットワークにつながる」可能性を持つのか。本文の趣旨に沿って100字以内で説明せよ(㊟解答例は最下段。スクロールして確認のこと)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答例》

 ボランティアは、通常のビジネス関係や友人関係と異なり、決められたことを決められた相手とするのではなく、行動をする過程で、予期しない、色々な人と関わっていく「つながりのプロセス」を目指しているから。

2015夏期『青木邦容のハイレベル現代文』第3講田中克彦「法廷にたつ言語」要約&記述解答例とプロセス&補充問題

【要約】

アルフォンス・ドーデの「最後の授業」は、一見すると明快な「国語愛」の物語に見えるが、実はアルザスにおいては、フランス語は国語であっても「他人のことば」であり、アルザス人にとっての「自分のことば」は一種のドイツ語であるアルザス人固有のことばであることを知れば、途端にこの物語を読んだ生徒は混乱を来すのである。アルザスのフランス化がほぼ完璧に達成された現在、物語中の、フランス語を「話せない」ということは通じなくなっており、それを「読めない」と書き換えているものがあるという。しかし、教科書その他に「読む」の方を選んだ訳者や、その他ドーデ研究家たちには、そこに孕む様々な問題を解明して欲しいと考える。なぜなら、殊に教科書においては、「最後の授業」が内蔵する複雑な問題に目をつぶったまま、この物語を「母国語愛」の教訓的物語に仕立てて子どもに読ませることは、子どもを欺き、ある種の扇動に子どもの精神を向けるおそれがあるからだ。「最後の授業」をどのように教え、また子どもたちはどのように読んでいるのか、様々な経験が発表されれば有益だと考える。

 

【問5】

①    ラフの作成

(ラフ)「最後の授業」は、複雑な問題を内蔵しているから。

    「最後の授業」が複雑な問題を内蔵している点を説明しないと、子供がそれを「母国語愛」の教訓的物語だと思い込むから。

②    不足分を付け加えてまとめていく。

【間接理由】(実は問3のイや問4のハやヘもヒントになる!!)

アルザス人へのフランス語の強制という真実をゆがめているのを、「自分のことばを話せない」を「読めない」と変えてまでつじつま合わせをしているから(複雑な問題を内蔵していると言える)。

③    合成してまとめてみる=【解答例】

(合成)「最後の授業」が、アルザス人へのフランス語の強制という真実を、表現を変えてまで隠している問題点を説明しないと、子供は「母国語愛」の教訓的物語だと思い込むから。(79)

 

《復習問題》

テキスト本文53行目「『話す』から『読む』への原文の手なおし」とあるが、なぜ教科書その他が、アルザスのフランス語化に並行する形で「読む」を選ぶといった原文の改変まで行ったと推論できるか。その理由を80字以内で考えて書け(㊟解答例は最下段。スクロールして確認のこと)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答例》

アルザス人の固有のことばがフランス語ではなかったことを知らないために、「最後の授業」が「母国語愛」の教訓的物語として素晴らしい作品だと、ひたすら信じているから。(80)

2015夏期『青木邦容のハイレベル現代文』第2講関根政美「多文化主義社会の到来」要約&補充問題

【要約】エスニシティや民族を客観的な民族文化の指標で規定するのは難しい。いかに我々が文化的愛着を持とうとも、それは客観的共通性を保証するものではない。文化は本来的に雑種であり、異文化との交流と接触によって発展してきたものだからだ。したがってその発展には今後も、各種の文化の共存を保障し交流・理解を促進する「多文化・主義」や文化は社会構築物であるとする文化観が必要である。

㊟上記赤下線部は79行目では「保障」となっているが、意味的には「保証」の方が正しいと思われるので変更した。「保障」=「対象を守る」、「保証」=「確かだと請け合う、責任を持つ」。

 

《復習問題》

テキスト本文43~44行目に「国民文化の発展のためには、むしろ異文化・異言語の存在と異文化間コミュニケーションを保障し」とあるが、ここで「保障」という表現を使い、積極的に「異文化・異言語の存在と異文化間コミュニケーション」を守らねばならないとした意図を示した理由を述べた、次の文の空欄に当てはまる言葉を本文から抜き出して記せ。ただしA・Cは五字以内、B・Dは十字以内で抜き出すこと(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

〇近代以来の、民族自決を基礎とする国民国家制度の国際システムの中では、各民族や国家が、自らの民族自決と国民国家の存続を求めて、民族文化やエスニック文化の純粋性や普遍性を、まさに( A )言説として強調し、またその結果として( B )に陥った。しかしどのような文化も本来的には雑種であり、仮にそのような状況下で先のように民族文化の純粋性を強調した場合、文化を構成するマジョリティ集団のルールが一方的にマイノリティ集団にとっても前提とされ、( C )が捏造される危険性がある。またそれに加えて、たとえ異文化同士が交流しても、それが表面的である場合、相互に自文化の独自性を改めて確認するだけに終わる。そのような( D )状況を防ぐため。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》

A政治的

B自文化中心主義

C純粋文化

D孤立閉鎖的な雑居状況

2015夏期『青木邦容のハイレベル現代文』第1講橋爪大三郎「社会空間の部分領域」要約&補充問題&記述解答例

【要約】

社会は、人々がそこで生きていく生活の舞台であるがゆえに、われわれのふるまいの集積と言えるが、ふるまいには多くの前提が含まれているために、社会もさまざまな前提を織り込んでいるということになる。それは事実と肩を並べて、社会的現実をかたちづくるが、これは宗教に特有とは言えない。なぜなら宗教の主要なモチーフは「信じる」ことであり、事実と同様のことと考えられて、誰もがそれを疑わず、社会的現実を構成している行動の前提は、「信じる」こととは異なるからだ。宗教は「必ずしも自明でない」ことがらを信じる点で、大きくことなる。しかし宗教は、こうした各文化集団、民族のアイデンティティを形作っている多くの隠れた前提の違いが引き起こす、民族間や文化集団間の抜き差しならない争いを解決する方法の一つでもあった。古代宗教は、社会を再組織するための、より高次の新しい前提を人々に信じさせることで、異なった民族・文化に属する人々が平和に共存するという深刻な課題を解決しようとしたのである。またこれが仏教やキリスト教のような、普遍宗教が求められた動機でもあった。

 

【問7】異なった民族や文化集団が共存する社会へと、社会を再組織するのに、古代宗教はより高次の共通の新しい前提を人々に信じさせた。

《復習問題》

テキスト本文55~56行目(問4解答箇所)に「彼らと前提を~線分を引いてしまった」とあるが、なぜ「外の世界から訪れた人物(宗教学者)」は、伝統社会に住む人々と自分たちの間に宗教上の「区別の線分」を引いたのか。その理由を50字以内で説明せよ(㊟解答例は最下段。スクロールして確認のこと)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答例》

伝統社会が、宗教と同じく神や霊の観念を持ち、しかもその信仰の対象が自分たちのとは異なっていたから。(49字)

《採点ポイント》「信仰の対象が自分たちのとは異なっていた」OR「伝統社会のふるまいが宗教儀礼に見え、しかも信仰の対象が違った」というような内容があればOK。