【要約】
アルフォンス・ドーデの「最後の授業」は、一見すると明快な「国語愛」の物語に見えるが、実はアルザスにおいては、フランス語は国語であっても「他人のことば」であり、アルザス人にとっての「自分のことば」は一種のドイツ語であるアルザス人固有のことばであることを知れば、途端にこの物語を読んだ生徒は混乱を来すのである。アルザスのフランス化がほぼ完璧に達成された現在、物語中の、フランス語を「話せない」ということは通じなくなっており、それを「読めない」と書き換えているものがあるという。しかし、教科書その他に「読む」の方を選んだ訳者や、その他ドーデ研究家たちには、そこに孕む様々な問題を解明して欲しいと考える。なぜなら、殊に教科書においては、「最後の授業」が内蔵する複雑な問題に目をつぶったまま、この物語を「母国語愛」の教訓的物語に仕立てて子どもに読ませることは、子どもを欺き、ある種の扇動に子どもの精神を向けるおそれがあるからだ。「最後の授業」をどのように教え、また子どもたちはどのように読んでいるのか、様々な経験が発表されれば有益だと考える。
【問5】
① ラフの作成
(ラフ)「最後の授業」は、複雑な問題を内蔵しているから。
「最後の授業」が複雑な問題を内蔵している点を説明しないと、子供がそれを「母国語愛」の教訓的物語だと思い込むから。
② 不足分を付け加えてまとめていく。
【間接理由】(実は問3のイや問4のハやヘもヒントになる!!)
アルザス人へのフランス語の強制という真実をゆがめているのを、「自分のことばを話せない」を「読めない」と変えてまでつじつま合わせをしているから(複雑な問題を内蔵していると言える)。
③ 合成してまとめてみる=【解答例】
(合成)「最後の授業」が、アルザス人へのフランス語の強制という真実を、表現を変えてまで隠している問題点を説明しないと、子供は「母国語愛」の教訓的物語だと思い込むから。(79)
《復習問題》
テキスト本文53行目「『話す』から『読む』への原文の手なおし」とあるが、なぜ教科書その他が、アルザスのフランス語化に並行する形で「読む」を選ぶといった原文の改変まで行ったと推論できるか。その理由を80字以内で考えて書け(㊟解答例は最下段。スクロールして確認のこと)。
《解答例》
アルザス人の固有のことばがフランス語ではなかったことを知らないために、「最後の授業」が「母国語愛」の教訓的物語として素晴らしい作品だと、ひたすら信じているから。(80)