2015第2学期『青木邦容の基礎→標準現代文』第6講麻生 武「身ぶりからことばへ 赤ちゃんにみる私たちの起源」要約&復習問題

【要約】

トンボやカブト虫や金魚や鳩や鼠と異なり、私たち人間は、自己と他者とを基本的に同型的な存在であり、自己と他者とは共通世界をもっており、自己の世界に対する関係と他者の世界に対する関係とは基本的に同じであると考えることができるゆえに“共同化された知覚世界“を持っている。つまり“共同化された知覚世界”を持つには、知覚を共有し合い体験を分かち合うような“自己”と“他者”が必要である。こうした“共同化された知覚世界”を持つ能力ゆえに人間は孤独に陥る。たとえ仲間と生活し交流し合っていても、自らを唯一無二の存在として他者と自己は本質的に異なっているという意識を持つ“私”は、“私的な”世界を持ちうるという点で孤独である。こう言うと、一見“私的な”世界を持ちうることと“共同化された知覚世界”を持つことは矛盾するように感じるがそうではない。なぜなら、“私的な”世界を持ちうるということは、“他者”と“共同化された知覚世界”を持つことのできた“自己”が、そこから疎外されたという意識を持つことではじめて可能であるという点で、後者が前者の前提になっているからである。

 

《復習問題》

再度文章を『読みながら』、次の選択肢の正誤について判断せよ(◯か×を付けよ)(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

 

①第1段落で筆者は、トンボやカブト虫や金魚や鳩や鼠の住む世界と「私たち」人間の住む世界には、絶対的な隔たりがあることを主張している。

②第2段落と第4段落で筆者が述べようとしたことは、“共同化された知覚世界”を持つには、その世界を共有し合うような“自己”と“他者”を組織化していることが必要だという点で同じである。

③第5段落におけるロビンソン・クルーソーの具体例では、ロビンソン・クルーソーを“自己”、犬を“他者”として、ロビンソンがいかにして“共同化された知覚世界”を構築したか、その過程が説明されている。

④第7段落では、筆者がこれまで述べてきたことを踏まえて、“私的な”世界を持ちうることと“共同化された知覚世界”を持つことは矛盾すると述べ、次段落でその克服法を説明するために問題提起を行っている。

⑤第8段落では、どうして“私的な”世界を持ちうることと“共同化された知覚世界”を持つことは矛盾しないかという観点から、後者があってはじめて、そこから疎外された時に前者を意識できると説明している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》

①×

②◯

③×

④×

⑤◯

2015第2学期『現代文読解』第5講饗庭孝男「中世を歩く」要約&漢字解答&記述解答&補足解説&復習問題

【要約】

寺へ参る、その時間的距離は「私」にとっては〈聖なるもの〉に近づいてゆく心の深まりの距離であり、求心状態が作られる過程として大切なものである。またその過程は「私」のとって自己を低める行為のことでもあり、寺に参る際には「私」は自分の心の不完全さや愚かしさを絶えず身に染みて感ずる時に、どれだけ自分を低めることが出来るだろうかと考える。自己を低めることで見えてくるものは、自己と絶対者との関係、あるいは自己と世界との関係であろう。ルネサンス以降は自己を高めようとした時代だったが、中世は自己を低めるということが芸術作品にも及んでいた時代であり、自己を低めることによる敬虔と畏れの心が、逆に美しい物を作った時代であった。

 

【問1】ア ひな イ せんえつ ウ けいけん キ がらん

【問2】エ懐疑 オ錬磨 カ過度 ク端的 ケ承認

【問4】

寺に向かって歩む際に、自らの心の不完全さ愚かしさを感じ、自己がいかに低い小さい存在であるかを知る。

 

【解説補足】

【問3】

A

❶㉗で一文にした後、「このようなこと」=不足情報を明らかにする。

❷「このようなこと」=「戦前の~合わない」を指しているのだが、この中に空欄Bが含まれてヒントになりにくい。

❸そこで、空欄を含む一文と対応する箇所を探すと、「いまだ[ A ]をもたない私」≑28行目「私は敬虔な信者のように心むなしく神仏にぬかづくわけではない」という対応箇所が見つかる。

❹ここからAには「信仰」が入る。

B

❶空欄Aの時と同様に考えると、「私」は「[ B ]的で教養主義的な古寺巡礼」が「合わない」という意味を、この箇所が作っていることが分かるが、私の「古寺巡礼」は、25~26行目に説明がある。

❷そこには「美意識の問題ではない」とある。ということは、「私」が古寺を巡るのはそれらが「美しい」からではないということになる。

❸そこから「審美」が選べる。

 

【問5】

❶35~36行目を㉗で一文にして考え、対応箇所(神経衰弱式(笑))を探す-近くにないので㉒扱いで、一端保留にし、9段落以降を探してみる。

❷すると45行目に「『個性』や『自我』の解放に生きた無邪気な近代への強い反省」という表現が見つかる。

❸元の35~36行目との対応をチェックすると、「明治以降」≑「近代」、「あまりにも~求めすぎたり~願いすぎた」≑「反省」、「『自我』の確立」「『個性』の伸長」≑「『個性』や『自我』の解放」となってマッチしているのがわかる。

❹そしてそこから設問にある筆者の「揶揄」≑「からかい」と思われる言葉を探すと「無邪気」という言葉が見つかる。

❺つまり、近代以降人間は38行目「(神などに)生かされている」ということを、つまり「中世の心」(64行目)を忘れていることを、あまりにも(54~55行目)「自己と絶対者との関係、あるいは自己と世界との関係」を忘れてしまって、「自己(近代的自我)」を賛美しすぎている点を「わかってねえ~な~」という意味で「無邪気」だと表現したのである。

【問6】

❶《問5》と強い関連を持つ設問である。53行目を㉗で一文にして考えると-

中世という時代-自己を低めようとした時代

         VS

ルネサンス以後(近代)-自己を高めようとした時代

という関係が表わされていることがわかる。

❷ということは傍線部は近代以後のことを説明した35~36行目と重なる(対応)。

❸制限字数が10字程度なので、35~36行目は多すぎる。したがってさらに対応箇所を探すと、問5で見たように、これらは45行目に説明がある。

❹そこに「『個性』や『自我』の解放」という表現があり、これは12字であるので「10字程度」に当たる。

 

【問7】㊟「合致しないもの」を選ぶ。

イ 筆者は6段落で「敬虔な信者」ではないと言いつつ、自らは「自分を低め」るという「中世の心」と同様の感じ方をしている。〇

ロ宗教的創造物、つまり古寺とかを美的鑑賞するのに敬虔な心は必要ない。6段落で筆者は古寺を巡る理由を「美意識の問題ではない」と言っている。×

ハ「地上の距離と歴史を超えて」というのは、つまり「時空を超えて」(自己を低める心が存在する≑普遍的)ということである。筆者が本文で「自己を低める」経験を外国でも経験したり、あるいはポール・クローデル(17行目・33~34行目)の言うことが、道元の述べたこと(32~33行目)と「つながっている」ということからも判断できる。〇

ニ 5段落に書かれている。〇

ホ自己を低めることは、「自己を真空状態にするにしたがって神がそこに入ってくる」とも表現されており、また63行目に「自己を低めることは敬虔であり畏れである」ともある。〇

ヘそもそも筆者が古寺を訪れて感じるのは29~31行目にあるように「自分の心の不完全さや愚かしさ」であり、それを「たえず身にしみて」感じる以上「自己陶酔」はあり得ない。×

 

【解答】

問3 A ロ B ロ

問5 無邪気(な)

問6「個性」や「自我」の解放

問7 ロ ヘ

 

《復習問題》

テキスト本文61行目に「まるで自然の『物』のように」とあるが、これはどういうことか。次の中から最も適当なものをひとつ選べ(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

①自己を低めつつ孤高をたのんで

②自ら充足しつつ調和を保って

③輪郭の確かさを誇示しつつ

④制約を退けつつ自由に

⑤個を滅却しつつ超然として

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》

⑤(自我、個性、それを作った人は「忘れ去られて」、まるで絶対者(57~59行目)のあわれみによって作ることが可能になったように、という意味)

2015第2学期『現代文基本マスター』〈本題〉4梶井厚志「戦略的思考の技術 ゲーム理論を実践する」要約&漢字解答例&復習問題

【要約】

閉店間際のデパートの地下食料売り場は、まさに戦略的環境と呼べる。値下げされてから買おうという常連客と定価で買う気がある人がいるうちは値下げをしたくない店、そして値引きを知らない、あるいは値引きを気にしないで商品を買い上げてしまうサラリーマンとの間で、それらの行動と思惑がお互いの利害を決めているからだ。またこのような環境のもとに生活していることを認識して合理的に意思決定することを戦略的思考法と呼ぶ。我々の身のまわりで観察されるどのような事柄も、戦略的環境において意思決定が行われた結果であると言えるがゆえに、相手の利害を詠み込んで賢明な行動を選択することが人々に求められるが、人々が、自ら置かれた戦略的環境を意識しているわけではなく、たとえ戦略的な思考の結果とられている行動をしても、その意義に気付いていないことも多い。

 

【問7】

1 購買 イ考証 ロ公害 ハ購読 ニ貢献

2 顧客 イ雇用 ロ愛顧 ハ誇張 ニ在庫

 

《復習問題》

テキスト本文43行目「賢明な行動を選択できる」とあるが、そのために筆者は何が必要と述べているか。それを端的に表した表現を、本文から14字で抜き出せ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》

戦略的思考にもとづく意思決定(14字)

2015第2学期『センター現代文』第4講熊野純彦「差異と隔たり」要約&漢字解答&復習問題

【要約】

ことばの誕生を準備するものは、ことばに先立つ交流のかたち、生理的欲求とは隔てられたやり取りの形式にある。やがて子どもは「交話的機能」を最初の言語機能として身につけるが、それは話し手と聞き手の接触に関わり、会話の開始、持続、終始や、経路の確認などを可能にする。実はここに見られるような形式を、非言語的次元において、子どもは乳児の間に成人との社会的ゲームによって先取りし習得している。交話的機能がそのようなものであるゆえに、その原型は、触覚的次元に求められるとも言える。そして言語の発生の元は、言語それ自体に先行しながら、言語そのものと何らか地続きなものであるが、それはことばの韻律的なあらわれかたに見てとれる。こうしたことばの韻律的なあらわれかたは普遍的なことがらであり、そこに自らの声が他者の声と交じり合うという経験の原型が形作られる。こうした非言語的な音声のやりとりは自己目的的なものであるが、ことばが単なる手段、道具ではないことを考えれば、ことばによるやり取りにはこうした、目的-手段という枠組みでは捉えがたい面があり、その点でことばは交流のかたちそのものと言える。ことばが生まれ出ようとする場に身をおくことで、こうした既成の言語理解によって覆い尽くされていることばの側面に目を向けることが可能になる。

 

【問1】

(ア)  獲得 ①収穫 ②威嚇 ③改革 ④捕獲 ⑤企画

(イ)  提起 ①前提 ②丁寧 ③締結 ④訂正 ⑤堤防

(ウ)  喚起 ①緩慢 ②陥没 ③召喚 ④厳寒 ⑤勧誘

(エ)  胎児 ①胎動 ②安泰 ③賃貸 ④逮捕 ⑤隊列

(オ)  冗長 ①丈夫 ②冗談 ③過剰 ④譲歩 ⑤蒸留

 

《復習問題》

テキスト本文2行目で、筆者は「ことばが生まれ育まれていく条件をかんがえるためには、ことばにさきだつ交流のかたち」に注目する必要があると言っているが、その「交流のかたち」とはどのようなものか。次の①~⑤の中から最も適当なものを選べ。

 

①言語によるやりとりに先だち、お互いが交流の意志があるかどうかを確認することを目的としたもの。

②言語そのものと地つづきである次元で、皮膚を介した触覚的な経験によって交流をしようとするもの。

③ことばによるやりとり以前の、意味のやりとりとは異なる次元での、交流そのものを目的としたもの。

④必ずしも特定の相手に伝えたい情報があるのではなく、単にことばを不特定多数に発するようなもの。

⑤ことばを交わす行為それ自体によって、伝達内容を超越した内容を相手に伝えることを可能にするもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》

2016第2学期『現代文読解』第4講井筒俊彦「意味の構造」要約&漢字解答&記述解答例&復習問題

【要約】

常識的には言葉と物の関係は、先ず物が有り、それらに別々の名前がレッテルとして付けられているというように直接的なものであるとされているが、実はそこには無限に複雑な自然物を見、それらを秩序づけ、様々な目的に従ってそれらを評価する、人間精神の独特の視点によって、現実の世界が主体的に再構成されるというプロセスが介在している。その意味で語は現実の世界の言語的類別化であり、「概念」と呼ばれるものはその主体的視点が明確な形をとったものである。意味論は、このような視点が語というはっきりとした形をとったものを分析的に研究する。

 

【問1】

ア 素朴 イ 詳細 ウ はんちゅう エ しい オ 固有

 

【問5】

tableもロゴスも、抽象度の違いはあっても、その言葉を持つ社会に固有な独特の現実世界の言語的類別化である点では同じだから。(58字)

 

《別解1》

物と言葉の間には直接的な結びつきはなく、全ての概念はその社会に固有な独特の精神態度の具体的な現れである点で同じだから。(59字)

 《別解2》

tableもロゴスも、抽象度の違いはあるが、その言葉を持つ社会に固有な独特の精神態度の具体的なあらわれである点では同じだから。(60字)

 

《復習問題1》

テキスト本文55~56行目「ごく普通の語でさえ、それに全くぴったりした語または句で訳すことは非常に難しい」とあるが、その理由を、本文中の語句を使って20字以上30字以内で説明せよ(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

 

《復習問題2》

テキスト本文68行目「客観的世界の単なる写し」とあるが、これを筆者は何に「たとえている」か。文中から「一語」で抜き出(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答1》

言語はそれぞれの社会に固有な独特の精神態度の表れであるから。(30字)

 

《解答2》

レッテル (9行目)

2015第2学期『現代文基本マスター』〈本題〉3赤瀬川原平「色はいつどうやって生まれてくるのか」要約&記述解答例&復習問題

【要約】

ぼくは色が苦手である。色を塗れば塗るほど冴えない色になっていき、と同時に色のコンプレックスが増えていく。色を生み出す天才は羨ましいが、それは至極、運命的なものに思える。色を生み出すことが得意ということは、自然描写の過程で独自の色が出てくるような意識的なものとは違い、また論理的に考え出された色とも違う。そうした過程無しに、いきなり色を生み出せる力こそが、やはり運命的なものなのではないか。実際、形とはことなり、色は線形で進むことはない。良い色のための論理は存在しない。だから色は運命でもあるかのようにあらわれるとでも言いたくなる。もちろん、ぼくだって最初の一色を塗るときは綺麗だが、それは白と対比されるからだ。したがって色を重ねて色を生み出す運命を、やはり切り開いてはいけない。ぼくは、先人の絵の色合いを借りて、それを応用し発展させようとしても、結局は失敗するが、誰もが、突然の運命で人類の絵のどこかにあらわれた色をお手本にして、自然描写の要領で応用しながら、少しずつ発展させているものかもしれない。そうであれば、自分が色を生み出せないことは、そう悲観することもない。

 

【問7】(解答例)

白い画面への最初の一色は、何でも白と対比されるために綺麗になるから。(34字)

 

《復習問題》

テキスト本文81~82行目「そうであれば~こともない」とあるが、なぜ筆者は「悲観することもない」と考えたのか。その理由を60字以内で述べよ(㊟解答例は最下段。スクロールして確認のこと)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答例》

みんなが先人の絵の色合いをお手本にしているならば、色を生み出せないことに自分がコンプレックスを感じる必要はなくなるから。(60字)

2015第2学期『現代文読解』第2講増田正造「能の表現」記述解答抜けてました!!すみません<(_ _)>

【問4】

(私立風)

不変のプラスチックを抜き取ったせいで、自分が本当は老いたというおそれと悲しみに直面させられるから。

(国公立風)

自分の美が実はプラスチックに支えられていた虚像であり、本当は老いていたことを急に自覚させられるから。

2015第2学期『センター現代文』第3講栗原彬「かんけりの政治学」要約&漢字解答&復習問題

【要約】

子どもたちが隠れん坊をしないで「複数オニ」や「陣オニ」など変形した隠れん坊をすることには見過ごしがたい意味がある。それは子どもたちが、隠れた者、オニ、相互に役割を演じ遊ぶことによって自他を再生させつつ社会に復帰する演習の経験を失うことを意味するからだ。「複数オニ」「陣オニ」そして「高オニ」といった隠れん坊の系譜を外れた身体ゲームは、そのまま「人生ゲーム」に通じるものを持つ。これらは共通のコスモロジーを有し、それは私生活主義と競争民主主義に主導された市民社会の模型としてのコスモロジーであり、産業社会型の管理社会の透視図法を骨格に持つコスモロジーである。「人生ゲーム」が新しいゲームにいくら取って代わられようが、そのコスモロジーは変わることなく、またそれによって子どもは、他人を打ち負かすことを主眼にした、そうした管理社会特有のコスモロジー自体に飽きてしまう。しかし外に出て「陣オニ」あるいは「高オニ」をするにしても、これらはやはり同構造のコスモロジーを持つということから、やはりすぐに飽きてしまう。そうした中で。子どもたちは同じ隠れん坊の変わり種でありながら、全く異なるコスモロジーを持つ遊びに出会う場合がある。それがかんけりだ。かんけりでは、子どもは管理社会のコスモロジーに蹴りを入れることに快感を覚える。また、かんけりで隠れている者は、根源的な相互共同性に充ちたコスモス(秩序)を持つ、市民社会からのアジールに籠り、そこに安堵感を覚えている。かんけりには、「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」といった遊びが持つ、他人を打ち負かすことに価値を見出すコスモロジーではなく、仲間を助けることに喜びを覚えるコスモロジーが展開している。またかんけりでは、それゆえに、隠れた者は、「隠れん坊」とは異なり、オニに見つかっても市民社会に復帰したいとは思わず、また隠れた者が友を奪い返して戻ってこようとする時、市民社会の制外的領域であるアジールを目指すのだ。

 

【問1】

(ア)  恒常的 ①恒例 ②貢献 ③振興 ④均衡 ⑤小康

(イ)  変換  ①勧誘 ②寛大 ③鑑定 ④帰還 ⑤換気

(ウ)  多寡  ①豪華 ②負荷 ③寡黙 ④貨物 ⑤過分

(エ)  猛然  ①猛火 ②妄想 ③網羅 ④本望 ⑤消耗

(オ)  交錯  ①昨日 ②作為 ③削除 ④索引 ⑤錯誤

 

《復習問題》

テキスト本文31行目「オニは聖なる媒介者であることをやめて秘密警察に転じ」とあるが、「聖なる媒介者」とはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

 

①    隠れん坊においては、隠れた者は擬似的な死の世界に置かれた者と見なすことができるが、オニはそうした隠れた者を発見することでそれを蘇生し、元の社会に連れ戻す役割を演じることで、自らも社会に復帰する存在であるということ。

②    隠れん坊で、隠れた者はオニに見つけてもらうことで蘇生できるという希望を持ちながら籠るが、オニはそうした隠れた者を発見することで、社会から引き離された状態からはじめて解放され、新たに社会の仲間にもなるということ。

③    隠れん坊をする際に、オニはまず人間社会から追放された存在として彷徨し、また隠れる者も社会から追放された存在として籠もるが、後者は前者と異なり、前者を発見すれば社会に復帰できる感動を味わえるという違いを持つということ。

④    隠れん坊では、オニは人間社会から自らを追放した存在として描かれるが、社会から引き離され擬似的に死んだ状態になった隠れる者を発見することで、改めて人間として社会に復帰できる機会を与えられた存在だということ。

⑤    隠れん坊におけるオニは、隠れた者にとっては恐ろしい存在に思われがちだが、元々社会から引き離され、擬似的に死んだ状態に置かれた「隠れた者」を蘇生し、社会に復帰させるために彷徨することを選んだ聖なる存在だということ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》

①     

2015第2学期『現代文読解』第3講山崎正和「世界文明史の試み」要約&漢字解答&記述解答例&復習問題

【要約】

身体のあり方と運動の様式はほぼ同義で有り、その様式は19世紀、20世紀を通じて世界的に標準化されてきた。19世紀段階ではそれは主に生産労働の規格化を通じて行われたが、本来的に人間の身体運動は、そうした生産や実用の世界に限られたものではない。身体は外界に働きかけるだけでなく、自らの存在感を確かめ、味わうためにも運動するのである。その意味で身体は「する」身体の営みと「ある」身体の営みを持つと言える。20世紀にはこの身体の自己確認のための運動様式である、「ある」身体の自己確認の営みが、世界的な統一の趨勢に乗って文明の境を超え始めた。特にスポーツは、現実の目的連鎖に組み込まれることのない典型的な「ある」身体の行動として、野球やテニスやサッカーなど商業スポーツの影響や、オリンピックによって地球規模に拡大していった。そして21世紀の人類は、「ある」身体の全ての機能についての理想を共有し、その実現や成果を共に賛美することでも連帯しつつある。

 

【問1】

ア 交歓 イ 巧拙

 

【問3】

スポーツは外界と関わるが、真の現実の中では合理的意味を持たない行動であり、自己の身体の存在感を確認して楽しむ営みだから。 (60字)

《別解》

スポーツは、現実の目的連鎖を持たない非生産的、非実用的な行動様式を通して、自己の身体の存在感を確認して楽しむ営みだから。 (60字)

 

《復習問題》

テキスト本文41行目「スポーツが関わる外界はいわば虚構の外界であって」とあるが、「虚構の外界」を説明した次の文に当てはまる表現を本文から20字以内で抜き出せ(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

◯スポーツが関わる外界は、非生産的、非実用的な性格を持ち、そこにおける行動の目的は、[  20字以内  ]。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》

真の現実のなかで合理的な意味は持たない (19字)

㊟本文54行目

2015第2学期『現代文基本マスター』〈本題〉2山折哲雄「花鳥諷詠 高浜虚子の『刀刃段々壊』」要約&復習問題

【要約】

最近、京都などの古寺を訪れる人々の流れが変わったと思うようになった。人々の流れは仏や菩薩の鎮座するはずの本堂を抜けて行ってしまう。しかし、堂を出て、自然を目にすると人々の流れは途端に停滞気味になる。仏や菩薩たちは、もはやお堂の中には鎮座しておらず、自然の中に居所を移し、そのはるか後景にその姿を隠しているのを人々は感じとっているのではないだろうか。仏教が日本に伝来する以前から、このような「気配を感ずる心」はあった。ところで高浜虚子は花鳥諷詠を、終生変わらぬ心の拠りどころにし、人心がどんなに揺れても微動だにしない俳句の天地とした。その花鳥諷詠は、自分の身辺を包む四季の現れの形を写すことであった。またそれには、主観を排し、「自然の多部分を抹殺して一部分を生かすこと」が大切であるという。そしてこうした虚子の俳句の無方法の方法は、実は日本の寺の庭を前にして、停滞し、滞留するわれわれ日本人が無意識に手にしているものなのかもしれない。

 

《復習問題》テキスト本文28行目「自然に念頭に浮かぶのが虚子の言葉である」とあるが、どうして「そんなとき」に「私」は虚子の言葉が念頭に浮かぶのか。60字以内で説明せよ(㊟解答例は最下段。スクロールして確認のこと)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答例》自然を前にした時、そこに仏や菩薩たちの気配を感ずるわれわれの心の動き方を、虚子の写生が端的にあらわしている気がしたから。(60字)