大人は、子ども向けの常識的世界像を形成し、その中で子どもと対等なパートナーシップをつかむことで子どもに標準的な言語使用を教えようとする。それは同時に「子どもらしい子ども」になることであり、「凡人たれ」という人物教育でもある。この標準的言語使用を自覚的に逸脱することで子どもははじめて、比喩や皮肉や冗談を飛ばせるようになるのであり、そのためにも子どもの無自覚な標準的言語使用からの逸脱をうかつに讃えてはならない。伝統的神話が弱体化した現在、そこからはみ出した者は自分を「ふつう」の者として位置づける新たな神話を作ろうとするが、自ら選び取った神話は「自分らしさ」として偏愛され、そこから言語の創造性は生まれない。創造性を生む武器としての諧謔は、自らに押しつけられた伝統的な神話という常識のもとではじめて可能になる。