㊟以下のプロセスに従い原則「ミルフィーユ」「サンドイッチ」&その他【青木方式】上、大切と思われる箇所を材料(=Material)としてピックアップした後、それらをまとめる。
○「文化の違い」は可視化される差異として現象しているけれども、実はそんなに違わない。それは同じ人間としてじゅうぶん理解可能であることを示している。
(→POINT➀1行目から47行目の「具体例」を通して言いたかったことは何か=44~61の内容をまとめる。【青木方式⑩】)
㊟「理解可能」はこの後も55行目「理解し合う可能性」60行目「『理解』しようとすることで・・・・・・」と繰り返される点で必須(→POINT②青木方式㊽)
○他文化を、自文化とは決定的に異なった、異質で特殊なものとする自文化中心主義的な「文化相対主義」は、自文化を相対化する批判的な自己認識を欠いているために、一文化の独自性を主張するだけでなく、同様に「自文化」の普遍性を僭称し、肯定したい者たちの共犯者となり、アメリカの覇権主義を補完するような多文化主義に通じる。(→POINT③62~83行目の中で繰り返される内容をまとめる。=青木方式㊽)
○反・自文化中心的な文化相対主義に基づいて、「文化」や「文化の違い」を考えることが、「文化の違い」が通約可能性を意味するという新しい普遍性へと私たちを開いていくだろう。(→POINT④84~87行目は結論である。明確な結論が置かれている場合はそれをまとめる。特に「新しい普遍性」が54~55行目の内容の「繰り返し」だと気づけば、「理解し合う可能性」=「通約可能」という言い換えも可能。)
(Synth=合成・・・・・・以上のMaterial=材料を本文の「構造」を参考にしながらまとめる=青木方式52)
「文化の違い」は可視化される差異として現象しているけれども、実はそんなに違わない。それは同じ人間としてじゅうぶん理解可能であることを示している。+他文化を、自文化とは決定的に異なった、異質で特殊なものとする自文化中心主義的な「文化相対主義」は、自文化を相対化する批判的な自己認識を欠いているために、一文化の独自性を主張するだけでなく、同様に「自文化」の普遍性を僭称し、肯定したい者たちの共犯者となり、アメリカの覇権主義を補完するような多文化主義に通じる。+反・自文化中心的な文化相対主義に基づいて、「文化」や「文化の違い」を考えることが、「文化の違い」が通約可能性を意味するという新しい普遍性へと私たちを開いていくだろう。
=(仮要約)「文化の違い」は可視化される差異として現象しているけれども、実はそんなに違わない。それは同じ人間としてじゅうぶん理解可能であることを示している。しかし他文化を、自文化とは決定的に異なった、異質で特殊なものとする自文化中心主義的な「文化相対主義」は、自文化を相対化する批判的な自己認識を欠いているために、一文化の独自性を主張するだけでなく、同様に「自文化」の普遍性を僭称し、肯定したい者たちの共犯者となり、アメリカの覇権主義を補完するような多文化主義にも通じる。したがって反・自文化中心的な文化相対主義に基づいて、「文化」や「文化の違い」を考えることこそが、「文化の違い」が通約可能性を意味するという新しい普遍性へと私たちを開いていくだろう。(320字)
→(圧縮―制限字数に近づけていく)
=(要約解答例)「文化の違い」は可視化される差異と裏腹に、実は同じ人間として理解し合える可能を示している。しかし自文化中心主義的な「文化相対主義」は、自文化を相対化する批判的な自己認識を欠くために、アメリカの覇権主義を補完するような多文化主義に通じる。したがって反・自文化中心的な文化相対主義に基づいて「文化」を考えることこそが、「文化の違い」が通約可能性を意味するという新しい普遍性へと私たちを開いていくだろう。(199字)