2017夏期講習会『青木邦容の標準現代文』第4講谷川渥『味覚と距離』記述解答例と解説(解答プロセス等)

問1(テキスト参照)

問2【POINT】テキスト3ページにあるように、語彙力強化は必須!!

Ⅰ他との関係から切り離して、それ自身だけで。(別解 他との関係など、色々考えずそれだけで直ちに判断するさま。)

Ⅱ多くの人に(もてはやされて)、世間で知れ渡っていること。

 

問3【POINT】第1段落を「イマナニ読解」すると、話題は「味覚」。それが「どうだ」と言っているか-。

◯個別的にこれがうまいとかまずいとかばかりが問題になっている(3~4行目)

◯一点個別主義的レベルで問題にされ、しかもそれが最終的に素材そのものの問題へと還元されてしまう(7~8行目)

 

そして傍線部の「イマナニ読解」は、「自然(養鶏)」-これが先ほどの段落の「イマナニ読解」とどのような関係があるのか-「素材そのもの」だ。つまり「味覚」=「うまい、まずい」が、「素材」で語られるという点に筆者は疑問を持っているのだ。しかもそれが「自然」だから「うまい(美味)」という考え方がおかしいことを指摘している。なぜなら「自然養鶏」の「自然」は既に「自然を意味しない」上に、第2段落の最初から語られるように、そもそも「料理とは、素材に手を加えるという意味で」既に「自然」ではない。言い換えれば「自然から距離」を取るから「料理」なのだ。したがってその「うまさ」の理由を「素材そのもの」に求め、さらに「自然」に価値を見出すこと自体、「料理」の意味に反することになる。

 

《解答&プロセス》

青木方式㉚からラフを作成→自然養鶏の「自然」は、既に自然ではない。(18行目使用)。→「自然」は既に自然ではないという表現は説明になっていないので表現を変える。冗語法(夢を夢見るとか馬から落馬する・・・といった、同じ意味の言葉を重ねる表現)は禁止。→21行目を使う「自然からの距離化」。→自然養鶏の「自然」は、既に自然からの距離化を意味する。(27字)→字数が不足しているので青木方式㉜で理由・根拠をプラスする。→理由・根拠=自然養鶏の「自然」が自然の意味を持たないのはなぜか?→「養鶏」だから。養鶏はどこまでも「養鶏」でしかない。どんな修飾語を付けても「養鶏」である。つまり「飼育されたもの」なのだ。ということは傍線部「文化概念」(㊟色々な意味があるが、ここでは「自然に対して人間の手が加わったものを表わす・・・程度の意味」で良い)とも対応する。→この理由をまとめてラフにプラスすると-。

 

《解答》自然養鶏の「自然」は、養鶏という人間の手が加わっている意味を持つ点で、既に自然を表わすものではない。(50字)

 

問4【POINT】第2段落を【イマナニ読解】すると、話題は「料理」で、その内容は「自然との距離化であり、それを味わうのはその距離を味わうことだ」ということになる(したがって、そのうまさ、まずさを「自然(の素材)」に還元するのは間違っている-ということになる)。

 

《解答&プロセス》

問2同様にラフを作成する→青木方式⑳から傍線部のSは22~23行目であることは分かっているので、ここから→自然からの距離化こそ料理の本質なのに、その距離を無視する評価の仕方は料理自体を認めないことになる。(49字)→丸写しは厳禁なのでS箇所を言い換えたが、これだけで49字。したがって青木方式㉜の出番は今回は無し(笑)。

 

㊟どうして「どういうことか」という問なのに「ということ」という文末になっていないのか?という疑問を持っている人も多いかもしれない。→青木方式㉟参照。表現形式も大切だが、まずは「中身」を濃くすること!!

問5【POINT】傍線部が含まれる第4段落の話題は、その直前の第3段落同様に「料理」。それが「どうだ」と言っているのかと言うと、「関係性の上に成立している」と言っている。第3段落での、その形式は「食材への工夫」であり、第4段落でのそれは「個々の品目」の「盛り付け方」「取り合わせ方」などを意味している。簡単に言うと「形式」とは「素材にどのような手を加えるか」ということと、「どのような食器に、どのように盛り付け、どのような順番で食べるか」ということを、ここでは指す。

 

《解答&プロセス》

問2同様にラフを考える。→問3同様に青木方式⑳で一文にして「話題」をつかむ→話題は「料理」でありそれが「どうだ」と言っているか-「形式が不可欠の工夫」だと言っている。→傍線部での「どうだ」は、「その形式性を無視して料理の優劣を論じることは無駄だ」ということ。また、傍線部との「神経衰弱」(青木方式⑧)から49~52行目の「一位だとか二位だとか決めることがいかに愚劣な行いであるか」とか「文化に対して~ほかならない」の箇所は記述の材料になるだろう。→ラフは以上の点から「形式性を味わうことが料理であり、それを無視して文化としての料理を比較することは愚劣で不可能な行為だから」となる。→もちろん、これでは字数が足らない。またこれは問2・3と異なり「理由説明」なので、青木方式㉝で字数をプラスする。ここでまずテキスト127ページを熟読して、「理由説明」の場合の「プラスの仕方」をマスターして欲しい。→まず青木方式㉝で「直接理由」(テキスト127~129ページ参照)を探してみる。→「どうして無駄なのか?」=先ほどのラフの「理由」を本文に求める(あるいは求めて自分で考える)→51~52行目に「文化に対して、一義的な等級を無理やり押し付けることにほかならない(から)」とある。たしか、料理(の形式性)は「文化へと変換する不可欠の工夫」(を意味するもの)であった(41~42行目)。ということは、傍線部にあるように「(形式性を無視して、)たとえば日本料理における吸物とフランス料理におけるスープとの優劣を論じてみても始まるまい」というのは、料理が形式の上に成立し、それが料理を文化にしているのに、その形式を無視して料理の優劣を論じることは、「かえって料理を論じていることにならない」ということになるのは分かるだろう。→ラフに以上の点を付加する→「形式性を味わうことが料理であり、それが料理を文化へと変換する不可欠な工夫ならば、それを無視することは全く異なる形式性を持つ文化同士を一義的な等級で評価するという愚劣で本来不可能な行為に過ぎないから。」(99字)(㊟52行目「無理やり~」ということは「本来不可能な行為」だとして言い換えた。)

 

問は全てこの時点で終わりだが、後半の内容も念のため見ておこう。

 

段落5(話題)料理(どうだと言っている)特定の場ないし文脈のなかに置かれた存在だ-と言っている。

やはりこの段落でも「料理」は「関係性」から成り立ち(第3段落から同じ)、それを離れてうまいとかまずいとかを言うことは出来ないと言っている。誰と食べるかやどの料理をどのような雰囲気や場所で食べるかも重要な要素なのである。

段落6(話題)食事の作法(どうだと言っている)料理は自然からの距離化の産物だった(第2段落)。そしてそれを文化にしているのは形式だった(第4段落)。食事の作法(という社会形式)も、そうした料理の文化性を支えるものの一つだ。

段落7(話題)料理及び料理をとるマナー(どうだと言っている)自然や人間の感覚の直接性(ある意味野蛮なもの)から距離をとり、形式を与えて文化的なものにする工夫である。そういう関係性や工夫の「網の目」を無視して料理のうまいまずいを論じるのは滑稽そのものだ(というこれまでの内容をまとめ、確認している)。

段落8(話題)(㊟青木方式⑧で「味覚の直接性」について32~35行目を確認=神経衰弱)味覚(どうだと言っている)味覚自体は、その直接性からすると(距離化がない点で)本来は低級なものだが、それは同時に「高度な」裁定機関でもあり、物事の「判別」を行う能力である点で「趣味」の世界に入り込んだ。あくまで味覚は物を直接、口に放り込むことによってしか機能しないが、同時にそれは物事の「良し悪し」を判断することと不即不離にあり、それが(今日のような、料理の形式性を無視した)味覚の風景を生み出したのである(第1段落参照)。