【どう読めば良かったか】
《第1段落》精神分析によって欲動的無意識について知った≑映画によって視覚的無意識について知った
《第2段落》=《第1段落の内容説明》
(日常のコミュニケーション)会話中のちょっとした言い間違い→聞き逃す=気にしない。
(精神分析の場合)会話中のちょっとした言い間違い→「分析」→言葉のやり取りの背後にある心理を浮かび上がらす=深層構造を浮かび上がらせる。
(例)Bさんのお葬式にて Aさん「Bさんがお亡くなりになるなんて、誠に喜ばしいことで・・・」
Bさんの妻「え?」
A「(焦りながら)いや、誠に残念なことで・・・(なんで喜ばしいなんて言っちゃ
ったのかな・・・)」
日常なら「言い間違い」で済ませられることでも、同じ現象を精神分析的に見てみると、そこには「無意識」にAさんが生前Bさんを何らかの形で恨んでいた、憎んでいた(しかもAさんはそれに普段気付いていない、あるいは普段その気持ちを押し殺して忘れている)ことが読み取れる。
→こうした精神分析的な「細部」=(この場合)「深層構造」「欲動的無意識」―の発見は、通常のコミュニケーションの様相=姿を全く違うものに変えてしまった。
(例)言葉「だけ」でのやり取りから「言葉」の背後に何らかの心理が働いていると考え、やり取りする言葉から相手の「ホンネ」を読み取ろうとする。
『同様のことが映画にも言える』
日常的な(意識的な)視覚の処理速度では「見逃してしまう」現象を、映画はスローモーションやクローズアップといった(分析=通常連続した場面を切り取る)で、その「細部」を発見する。
(例)浅田真央が可愛いとか言っている人=浅田真央を「可愛いと認識している」人→ジャンプしてクルクル回っている際の浅田選手を「スローモーション」で見てみる→普段見れない「凄まじい顔の浅田真央」が見られる→浅田真央に対する見方「認識」がそれ以降変わるだろう(笑)。
→(共通する特徴)=処理速度を変える-分析-通常無意識な部分を発見する-認識の構造を(根底から)変えてしまう=空欄X=POINT①処理速度の変化POINT②認識の変化(構造を変えてしまう=質的変化)
(例)歩いている姿(通常)をフィルムに撮ってコマ送りにする(=分析=処理速度の変化=通常よりゆっくり)→「どのように足を運んでいるかが見える=通常意識しない姿=視覚的細部
《第3段落》今まで見てきたように精神分析も映画も「細部を発見する装置」である。そしてこの場合の「細部」とは「無意識」である。
《第4段落》両者ともなぜ発見した対象が「無意識」だったのか?映画は簡単である。そういう情報機械=現在でいうメディアが誕生したからだ。では「精神分析」はどうか?
《第5段落》フリードリヒ・キトラ-によると、《第4段落》で述べられていた「世紀転換期の情報環境」から精神分析の技法が影響を受けていたという。ということは情報機械の誕生→(影響)→精神分析。
つまり情報機械の発達によってやはり精神分析も「今までは知ることの出来ない世界」=「無意識」を知る手段を得た。そうした「手法」のおかげで「無意識」の世界が発見されるのは必然である。
(例)フロイトは精神分析医を受話器に見立てた。患者はマイクだ。つまり臨床において患者がペラペラ自由に(自分の連想することを)話すのを分析医はじっと黙って聞かなくてはならない(しかも内容を聞き取るだけではなく、「言い間違い」なども聞き逃してはいけないと言った)→何のために?→第2段落「通常のコミュニケーションとは別に存在する深層構造を浮かび上がらせるために」→それが御仕事ですから!!(問四に関連)
(ここまでが講義でやった分=復習!!)
《第6段落》
「ここに機械の隠喩は必然となる」とはどういうことか?(問五)まず「自分で考える!!」
設問の形がどうであれ、そこに「何が書かれているか」が分かれば、全ての設問に答えられる!!←これ重要。
「ここに機械の隠喩は必然になる」とあるが、「ここ」とは直前の、ノイズを無視する通常のコミュニケーションでの態度を、精神分析医は変更することが求められる「こと」を指している。
そもそも「ノイズ」とは何であったか。→傍線部(1)で見たように(例えば)「言い間違い」などである。
これは第2段落の始めに書いてあったように、「日常的な処理速度では聞き逃されてしまう」ものである。
しかし精神分析医はその「ノイズ」を聞き逃す態度の変更を求められるわけである。そして《5段落》の説明で見たように、精神分析の手法は「世紀転換期の情報環境」から影響を受けてその態度をとったとすれば、「精神分析医」はあたかも「情報機械」のような態度を取っている「ので」、「機械の隠喩」が当てはまるのは当然ということになる。このようなことを述べている選択肢は問五の選択肢では⑤しかない。
《第7段落》いきなり「前述したように」と言われても、「え、どこに?」と思ったかもしれないが、「ベンヤミン的細部は情報処理速度の変化により現れる」という内容は、たしかに第2段落に説明されてる。そこで説明されたことを再度確認しておこう。
映画によってスローモーション映像などを見る→それまで「意識の世界」では見ることのできなかった「視覚的無意識」を明らかにする→世界認識の構造を変えてしまう。(㊟これが問三で考えた解答のイメージ)
講義で言ったように、普段目にする「手」と異なる形で「手」を見れば、「手がきれい」という世界観は覆されるだろう。この話を思い出して欲しい。
さて、カントの言葉を借りれば私たちは「感性」というカメラレンズから入ってきた映像を「悟性」という情報処理装置が「それが何であるか・どういう状態か等」を判断する。要するにスマホのカメラと一緒。
ところが私たち人間は、その「悟性」=コンピューターなどでいう演算処理装置の処理速度を上げられない。
つまり感性で見たものを頭の中で再処理して「今、実際の速さで見た感じとは違ってこうなっているんだな~
」というように「実際見ているものとは違うように見ることはできない」。
だから「馬の動作」でも「その一動作あたりの処理密度を高めるためには[ Y ]しかない」。
ここの空欄Yも今回の講義テーマ「そこに何が書いてあるかが分かれば、記述もマークも空欄補充もみな同じ」で解く。
今述べてきた内容を見ると-
①私たちは目で見て(視覚=感性)
②「悟性」で情報処理する
③しかし「悟性」の情報処理速度を(機械のように)変えられない
という話だった。では視覚的細部=視覚的な無意識=普通私たちが見ることの出来ないもの、例えば「馬の脚の運びの一動作」を見るためにはどうすれば良いか?
簡単! 何度も言うように「映像に撮るなどして、スローモーションやコマ送り」で見るしかない!!
これが最後から3行目に書いてある「人間の外部で視覚的情報を加工する装置(カメラ-フィルム-映写機)が必要になる」というところ。
私たちは情報機械により、無意識=細部を見いだせるようになった!!という話を「繰り返している」のだ。
というわけで空欄Yには「悟性の処理速度が変えられない以上、入ってくる映像の速度、視覚=感性の速度を下げる」しかないという発想が論理的に考えられる→①しかない。
ここまで理解出来ていれば問七に関して、③が正解なのは分かるだろう。
1 ベンヤミン的「細部」=視覚的細部、精神分析的「細部」のこと。筆者はそれを「情報処理密度の変化によって認識可能になった時代の産物にすぎず」と限定したいのではなく、情報機械の発達によってそういう「細部」が発見されるようになったと言っている。
2精神分析の手法が映画の手法を取り入れたとは言っていない。
3正解
4「無意識を発見しようとする意図のもとに生まれた」のではなく、情報技術の発達やその影響によって「発見」されたのだ。
5情報技術の発達が文明に与えた影響とかは説明されていない。また世界認識が時代によって変化するなどというのは本文のテーマから大きく外れている。