2014冬期『青木邦容のハイレベル現代文』第4講鷲田清一「京都の平熱」問7解答解説&要約&復習問題

【問7】(解答解説ー解説中番号は【Aokiroid Ver.5.0】の番号ー確認せよ)

傍線部を1文にして考える(㉗)⇒傍線部3以降の「緩すぎるその隙間を埋め合わせようとやっきになる」に注目⇒49~50行目「その[ C ]で~焦ることになる」まで戻る(㉒)、「焦ることになる」≑「やっきになる」。⇒ということは、傍線部は「隙間のない硬い世界以上に硬い世界を構築する」ことを意味するので、設問に従ってその内容と対立する箇所を探す⇒44~45行目にあるように「隙間のない世界」では「別様の存在の可能性が見えなくなる」⇒ということは、その反対は「別様の存在の可能性が見えてくる」といった内容を持つ箇所を探せば良い(ただし字数注意)⇒設問条件に合うのは37行目「存在の別の可能性への移行」

解答は「存在の別の」となる。㊟他予備校や問題集などの解説で54~55行目の「この世界の〈外〉へ踏み出す」を答えにしているものがあるみたいだが、まず青木方式㊹でここは解答にするのを避けるべきである(青木方式と付いているが㊹は「現代文」の一般的原則である)。また、傍線部は「こだわり」で終わっているのに、「踏み出す」という動詞で終わるのもおかしい。また39行目の「『別の世界』への想像を駆る」を解答にしている予備校もあるが、これは、「この世界の〈外〉へ踏み出す」同様、解答として傍線部との対応が甘いばかりか、内容的にもおかしい。「『別の世界』への想像を駆る」は、存在の別の可能性への移行=今ある世界の〈外〉へ踏み出す前の段階であり、「別の世界」への想像が駆られる故に、その世界へ移行しようとすると考えられ、別様の存在の可能性への移行の「契機」(きっかけ)に過ぎないと考えられるため、正解にならないと考えられる。ただ大学側はこれらを「別解」としている可能性が否定できないために、無下に「×」とは言えない。またこれらを解答とした人は「専門家の解答」と同じ解答出すところまではできたと考えて、かえって自信を持って欲しいということを最後に付け加えておく。

【要約】

京都のような古い町にあっていまの郊外のニュータウンにないものは大木と宗教施設、そして場末である。大樹は、自分の存在を見直すために、時間のスケールを変えるきっかけを与えてくれるものであり、寺社は日常生活で共有している普通の世界観や感受性とは別の次元から、じぶんのいまとここをみつめるきっかけを与えてくれるものであり、そして場末は、生きるということの別の選択肢を見せてくれる場所である。これらに共通しているのは、この世界の〈外〉に通じる開口部や裂け目であるということであり、それらは自分の存在の別の可能性を揺さぶるという点で、妖しい魅力があるものである。こうした都市の隙間とも言えるものは、京都に溢れている。京都は、いまでもドラマで描かれるよりはるかに形而上学的に妖しい街なのだ。

 

 ㊟7段落の内容で、どうして過度の合理主義などがカタレプシーにつながるのかという疑問を持った人がいるかもしれないが、その論理はこうである。

世界が確固たる(信じられる)価値観を持っていない場合、人々は不安に駆られる=「世界はゆるゆるのつかみどころのないものと~襲われる」(48~49行目)⇒(例えば)過剰な合理主義によって、人々は大量生産、大量消費という世界観が、あたかも現代社会の理念のように思い込む⇒世界(あるいはそこに存在する人々)はそうした価値観以外の生活を送ることができなくなる(=閉塞)。

過度な饒舌や過剰な嫉妬心、被害妄想、常同行為、幼児性への退行現象という例は、ここだけではわかりにくいが、自らがこういう状態に「しがみつく」=生活の中でこういうことばかりすることで、自分の「変化」への可能性を閉じてしまう=閉塞状況に陥る-という意味で、筆者はこれらを挙げていると思われる。

【復習問題】本文4行目「世界が口を空けている」というのはどういうことか。70字以内で記せ(㊟解答は最下段)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【解答例】

わたしたちの日常生活の中で共有している普通の世界観や感受性とは別の次元にあり、わたしたちに別様の存在の可能性を見せてくれているということ。