2015第2学期『現代文基本マスター』〈本題〉3赤瀬川原平「色はいつどうやって生まれてくるのか」要約&記述解答例&復習問題

【要約】

ぼくは色が苦手である。色を塗れば塗るほど冴えない色になっていき、と同時に色のコンプレックスが増えていく。色を生み出す天才は羨ましいが、それは至極、運命的なものに思える。色を生み出すことが得意ということは、自然描写の過程で独自の色が出てくるような意識的なものとは違い、また論理的に考え出された色とも違う。そうした過程無しに、いきなり色を生み出せる力こそが、やはり運命的なものなのではないか。実際、形とはことなり、色は線形で進むことはない。良い色のための論理は存在しない。だから色は運命でもあるかのようにあらわれるとでも言いたくなる。もちろん、ぼくだって最初の一色を塗るときは綺麗だが、それは白と対比されるからだ。したがって色を重ねて色を生み出す運命を、やはり切り開いてはいけない。ぼくは、先人の絵の色合いを借りて、それを応用し発展させようとしても、結局は失敗するが、誰もが、突然の運命で人類の絵のどこかにあらわれた色をお手本にして、自然描写の要領で応用しながら、少しずつ発展させているものかもしれない。そうであれば、自分が色を生み出せないことは、そう悲観することもない。

 

【問7】(解答例)

白い画面への最初の一色は、何でも白と対比されるために綺麗になるから。(34字)

 

《復習問題》

テキスト本文81~82行目「そうであれば~こともない」とあるが、なぜ筆者は「悲観することもない」と考えたのか。その理由を60字以内で述べよ(㊟解答例は最下段。スクロールして確認のこと)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答例》

みんなが先人の絵の色合いをお手本にしているならば、色を生み出せないことに自分がコンプレックスを感じる必要はなくなるから。(60字)

2015第2学期『現代文読解』第2講増田正造「能の表現」記述解答抜けてました!!すみません<(_ _)>

【問4】

(私立風)

不変のプラスチックを抜き取ったせいで、自分が本当は老いたというおそれと悲しみに直面させられるから。

(国公立風)

自分の美が実はプラスチックに支えられていた虚像であり、本当は老いていたことを急に自覚させられるから。

2015第2学期『センター現代文』第3講栗原彬「かんけりの政治学」要約&漢字解答&復習問題

【要約】

子どもたちが隠れん坊をしないで「複数オニ」や「陣オニ」など変形した隠れん坊をすることには見過ごしがたい意味がある。それは子どもたちが、隠れた者、オニ、相互に役割を演じ遊ぶことによって自他を再生させつつ社会に復帰する演習の経験を失うことを意味するからだ。「複数オニ」「陣オニ」そして「高オニ」といった隠れん坊の系譜を外れた身体ゲームは、そのまま「人生ゲーム」に通じるものを持つ。これらは共通のコスモロジーを有し、それは私生活主義と競争民主主義に主導された市民社会の模型としてのコスモロジーであり、産業社会型の管理社会の透視図法を骨格に持つコスモロジーである。「人生ゲーム」が新しいゲームにいくら取って代わられようが、そのコスモロジーは変わることなく、またそれによって子どもは、他人を打ち負かすことを主眼にした、そうした管理社会特有のコスモロジー自体に飽きてしまう。しかし外に出て「陣オニ」あるいは「高オニ」をするにしても、これらはやはり同構造のコスモロジーを持つということから、やはりすぐに飽きてしまう。そうした中で。子どもたちは同じ隠れん坊の変わり種でありながら、全く異なるコスモロジーを持つ遊びに出会う場合がある。それがかんけりだ。かんけりでは、子どもは管理社会のコスモロジーに蹴りを入れることに快感を覚える。また、かんけりで隠れている者は、根源的な相互共同性に充ちたコスモス(秩序)を持つ、市民社会からのアジールに籠り、そこに安堵感を覚えている。かんけりには、「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」といった遊びが持つ、他人を打ち負かすことに価値を見出すコスモロジーではなく、仲間を助けることに喜びを覚えるコスモロジーが展開している。またかんけりでは、それゆえに、隠れた者は、「隠れん坊」とは異なり、オニに見つかっても市民社会に復帰したいとは思わず、また隠れた者が友を奪い返して戻ってこようとする時、市民社会の制外的領域であるアジールを目指すのだ。

 

【問1】

(ア)  恒常的 ①恒例 ②貢献 ③振興 ④均衡 ⑤小康

(イ)  変換  ①勧誘 ②寛大 ③鑑定 ④帰還 ⑤換気

(ウ)  多寡  ①豪華 ②負荷 ③寡黙 ④貨物 ⑤過分

(エ)  猛然  ①猛火 ②妄想 ③網羅 ④本望 ⑤消耗

(オ)  交錯  ①昨日 ②作為 ③削除 ④索引 ⑤錯誤

 

《復習問題》

テキスト本文31行目「オニは聖なる媒介者であることをやめて秘密警察に転じ」とあるが、「聖なる媒介者」とはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

 

①    隠れん坊においては、隠れた者は擬似的な死の世界に置かれた者と見なすことができるが、オニはそうした隠れた者を発見することでそれを蘇生し、元の社会に連れ戻す役割を演じることで、自らも社会に復帰する存在であるということ。

②    隠れん坊で、隠れた者はオニに見つけてもらうことで蘇生できるという希望を持ちながら籠るが、オニはそうした隠れた者を発見することで、社会から引き離された状態からはじめて解放され、新たに社会の仲間にもなるということ。

③    隠れん坊をする際に、オニはまず人間社会から追放された存在として彷徨し、また隠れる者も社会から追放された存在として籠もるが、後者は前者と異なり、前者を発見すれば社会に復帰できる感動を味わえるという違いを持つということ。

④    隠れん坊では、オニは人間社会から自らを追放した存在として描かれるが、社会から引き離され擬似的に死んだ状態になった隠れる者を発見することで、改めて人間として社会に復帰できる機会を与えられた存在だということ。

⑤    隠れん坊におけるオニは、隠れた者にとっては恐ろしい存在に思われがちだが、元々社会から引き離され、擬似的に死んだ状態に置かれた「隠れた者」を蘇生し、社会に復帰させるために彷徨することを選んだ聖なる存在だということ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》

①     

2015第2学期『現代文読解』第3講山崎正和「世界文明史の試み」要約&漢字解答&記述解答例&復習問題

【要約】

身体のあり方と運動の様式はほぼ同義で有り、その様式は19世紀、20世紀を通じて世界的に標準化されてきた。19世紀段階ではそれは主に生産労働の規格化を通じて行われたが、本来的に人間の身体運動は、そうした生産や実用の世界に限られたものではない。身体は外界に働きかけるだけでなく、自らの存在感を確かめ、味わうためにも運動するのである。その意味で身体は「する」身体の営みと「ある」身体の営みを持つと言える。20世紀にはこの身体の自己確認のための運動様式である、「ある」身体の自己確認の営みが、世界的な統一の趨勢に乗って文明の境を超え始めた。特にスポーツは、現実の目的連鎖に組み込まれることのない典型的な「ある」身体の行動として、野球やテニスやサッカーなど商業スポーツの影響や、オリンピックによって地球規模に拡大していった。そして21世紀の人類は、「ある」身体の全ての機能についての理想を共有し、その実現や成果を共に賛美することでも連帯しつつある。

 

【問1】

ア 交歓 イ 巧拙

 

【問3】

スポーツは外界と関わるが、真の現実の中では合理的意味を持たない行動であり、自己の身体の存在感を確認して楽しむ営みだから。 (60字)

《別解》

スポーツは、現実の目的連鎖を持たない非生産的、非実用的な行動様式を通して、自己の身体の存在感を確認して楽しむ営みだから。 (60字)

 

《復習問題》

テキスト本文41行目「スポーツが関わる外界はいわば虚構の外界であって」とあるが、「虚構の外界」を説明した次の文に当てはまる表現を本文から20字以内で抜き出せ(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

◯スポーツが関わる外界は、非生産的、非実用的な性格を持ち、そこにおける行動の目的は、[  20字以内  ]。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》

真の現実のなかで合理的な意味は持たない (19字)

㊟本文54行目

2015第2学期『現代文基本マスター』〈本題〉2山折哲雄「花鳥諷詠 高浜虚子の『刀刃段々壊』」要約&復習問題

【要約】

最近、京都などの古寺を訪れる人々の流れが変わったと思うようになった。人々の流れは仏や菩薩の鎮座するはずの本堂を抜けて行ってしまう。しかし、堂を出て、自然を目にすると人々の流れは途端に停滞気味になる。仏や菩薩たちは、もはやお堂の中には鎮座しておらず、自然の中に居所を移し、そのはるか後景にその姿を隠しているのを人々は感じとっているのではないだろうか。仏教が日本に伝来する以前から、このような「気配を感ずる心」はあった。ところで高浜虚子は花鳥諷詠を、終生変わらぬ心の拠りどころにし、人心がどんなに揺れても微動だにしない俳句の天地とした。その花鳥諷詠は、自分の身辺を包む四季の現れの形を写すことであった。またそれには、主観を排し、「自然の多部分を抹殺して一部分を生かすこと」が大切であるという。そしてこうした虚子の俳句の無方法の方法は、実は日本の寺の庭を前にして、停滞し、滞留するわれわれ日本人が無意識に手にしているものなのかもしれない。

 

《復習問題》テキスト本文28行目「自然に念頭に浮かぶのが虚子の言葉である」とあるが、どうして「そんなとき」に「私」は虚子の言葉が念頭に浮かぶのか。60字以内で説明せよ(㊟解答例は最下段。スクロールして確認のこと)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答例》自然を前にした時、そこに仏や菩薩たちの気配を感ずるわれわれの心の動き方を、虚子の写生が端的にあらわしている気がしたから。(60字)

2015第2学期『青木邦容の基礎→標準現代文』第3講木岡伸夫「風景の中の時/時の中の風景」要約&復習問題

【要約】

年をとるにつれ、なぜ時の経つのが早く感じられ、しかも年をとった今、そのことが昔ほどは気にならないのはなぜか。そうした問題を考える際に「時間」を主題化することは、時間は言挙げされない仕方でしか経験されないという性格から、そのあり方そのものを変えてしまうことになる。したがって直接に時間を問うのではなく、時間がそれに即して現象する「記憶」や「風景」といったものを取り上げるしかない。集団の共有する物語としての風景は「原風景」と呼ぶべきもので、それは同時に時間的にして空間的なものである。したがって時間への問いと風景への問いは同じになる。その「原風景」は、かつてあるものが存在したことの記憶と、それが現に失われつつあるか、既に失われたという事実が結びつくことによって生じる点で、その失われゆくものとのつながりは、〈距離〉を生み出し、その距離が、風景の中の時の移ろいの早さとして実感される。しかし濃密な今の連続を生きる若者には、風景の中の時は常に現在に連続しているために、過去との間にそうした安定した距離を構成する余裕がない。その危機意識が時の経過が早まるという驚きを作りだしている。しかし年齢と共に、過去を瞬時に取り戻すことができるようになると、その危機が顕在化しなくなり、無常の感は薄れていく。それが年を取るにつれ、時の速さが気にならなくなる理由でもある。

 

《復習問題》

テキスト本文87行目の「距離」には〈 〉が付けられており、他の箇所の「距離」と意味を異にして用いられている。その意味の説明として最も適当なものを次の①~⑤のうちから選べ(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

①哲学的風景論の構造を持っていることを意味する。

②距離が、時間的にして空間的であるということを意味する。

③現代人の原風景までの距離が遠いことを意味する。

④自らの生活の中の世界が風景であることを意味する。

⑤記憶の中で失われていくものへの愛惜を意味する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》

⑤(ここでの「距離」は「離れを距ぐ」と説明されている。原風景が原風景足りうるのは、記憶の中でそのものとのつながりが生きており、それが失われていくことへの「もったいなさ」「惜しみ」が生じること(=離れを距ぐ)からであり、そういう心理から時間が経つのが速いという実感が生じる。)

2015第2学期『現代文読解』第1講内山節「『学び』の時間と空間の再構成」記述解答集

(参考)「直接理由」とは?「間接理由」とは?

たとえば「彼が学校を休んだ理由」を求められて、その答えが「風邪を引いたから」だったとします。

この「風邪を引いたから」が、学校を休んだ「直接理由」です。

もしそれで説明不足というなら、次に「間接理由」をプラスします。

「間接理由」とは、「直接理由」の「理由」のことです。

この場合なら、「なぜ風邪を引いたのか」、その理由に当たるものをプラスすれば良いのです。

仮にそれが「裸のまま寝てしまったから」ならば、それが「間接理由」に当たります。

これらを合成するとー

〇彼は、裸のまま寝てしまい、風邪を引いてしまったから。

となりますね。

【問6】

(私立タイプ)自己を肯定し、他人を見下すことで、自己を最高位に位置づけられる点で、きわめて心地よいから。 (下線部分が直接理由、その他が間接理由)

(国公立タイプ)個の確立が「不十分」な人々を自分とは違うと批判する、自己反省を伴わない、自己肯定の論理であったから。

 

2015第1学期『青木邦容の基礎→標準現代文』第2講山崎正和「演技する精神」要約&復習問題

【要約】

人間の自由意志が働きうるのは、実はわれわれがまだ行動を開始していない段階に限られ、たとえ意志の結果、行動が始められたように見えても、そこに因果関係はない。なぜなら人間の自由意志と、現実に「やる気になる」ことの間には、人間の態度の転換を求めるような飛躍的な断絶が潜んでいるからだ。その結果、われわれは行動の能動的で主体的な姿勢の中へは、実は受動的に連れ込まれていると言える。人間は、自己の生理的な傾向や、環境の強制に逆らって目的を選ぶことはできるが、人間の自由とはたかだかそれだけのものであり、そもそも我々は、意志を抱く特定の瞬間を選ぶことができない。我々は、行動の実践の中で自己を動かそうとする時、実はそれが能動によるものなのか受動によるものなのかを区別できず、その意味で行動に向かって意志を抱いた瞬間に、実は抱かされているというような、奇妙な二重構造のなかにある。

 

《復習問題》

テキスト本文26行目「逆説」とあるが、次の中から本文の中におけるこの「逆説」の意味を表した文として、最も近い内容を持つ例文を次の①~⑤の中から選べ。

①情報を発信したいという能動的欲望は、人に自分を知って欲しいという受動的欲望である。

②クレア島人が言った「クレタ島人はみな嘘つきである」

③人間は、「自由」の「刑」に処せられている。

④人が存在し続けようとすることは、他人の志向性を必要とする。

⑤「この壁に張り紙をしてはならない」という張り紙がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》

④(自分が存在し続けようとする=能動的、他人の志向性を必要とする=もし他人に意識されなければ、その人は存在しないのと同様になるので、志向性=意識を向けられることが必要=受動的)

2015第2学期『現代文読解』第2講増田正造「能の表現」要約&文学史解答&漢字解答&復習問題

【要約】

世阿弥は、花は散るからこそ美しいのだという視点に立ち、あるいはさらに積極的に散らすことによって花の新鮮さを際立たせ、花の新たな生命を持とうという考えに立つ。世阿弥の一世代先輩に当たる兼好は、うつろう無常の実相の中に美を感じ取るという自然観照に徹したが、世阿弥はさらに、花は散るからこそ、再び時節が巡ってきて咲く花が珍しく、新鮮に感じられるとし、また同じように能もひとつの表現にばかりとらわれぬ、停滞をこばむ態度こそ、魅力の出発点だと考えた。そしてそれは花に比喩される理論として、散ることをふまえた文化の精髄をなすものであり、観客の要求する花を、すぐさま舞台に咲かせてみせるには、幅広いレパートリーと演技の変化を必要とすると説く。そうした技法は、移り気な観客を常に新鮮な感動でつなぎとめる、芸の実力と観客の共感を結ぶための触媒の作用にほかならない。その意味で「真の花」を身につけた演者とは、花を咲かせると同時に、自由に花を散らすことのできる演者でなくてはならなかった。

 

【問5】

イ新井白石 ロ本居宣長 ニ心敬 ホ藤原定家

【問10】

ア 立脚点 イ 詠嘆 ウ 実相 エ遺訓 オ 停滞

 

《復習問題》

テキスト本文24行目「心で見る態度」を言い換えることのできる箇所を、本文から5字以内で抜き出せ(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》

自然観照

2015第2学期『現代文基本マスター』第1講加藤尚武「脳死・クローン・遺伝子治療」要約&復習問題

【要約】

人間が「神を演ずる」ということについて、それは許されるべきことではないという批判がなされる。しかしその批判の背後には、人工よりも自然が良いという一種の倫理学的自然主義の立場が横たわっている。たしかに自然の中には人知を絶する巧妙な知恵が働いている場合も認めることができるが、そうした自然の中の理想的な秩序が人間にとって理想的か、また自然的な自己回復システムが自然そのものにとって理想的であるかといえば、おそらくそうではない。そうした自然は自然的な自然であり、歴史的自然と言えるものである。こうした自然の中に横たわっている技術的操作の限界を破らない内は、技術は自然の法則に服従し、人間性を保つことができるが、人間はそうした素朴自然主義の技術倫理と言うべき状態を既に超えてしまっている。したがって人間にとって自然らしさを残すという課題は、もはや自然に委ねたのでは解決できない。ここで「自然」は究極の価値として無条件に守るべきものである。またそれは人間の歴史的同一性を守ることでもあり、「人間らしさ」を守り、人間の中の自然を守ることでもある。

 

《復習問題》テキスト本文72行目「生命はいつも暗い神秘をたたえたブラックボックスであり」とあるが、これはどういうことか。次の中①~⑤からその説明として最も適当なものを一つ選べ(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

 

①技術が自然の法則に服従しているために、人間は生命現象を外側から観察することしかできず、技術的操作をするだけの情報を得られないということ。

②歴史的な自然の中に横たわっている技術的な操作の限界を破れないせいで、技術が生命に対して全く手出しできず、その進歩が停滞しているということ。

③人間は生命現象を外側から観察して、その内部に対して憶測をめぐらすことしかできないので、本質的に自然に服従することでしか生命を維持できないということ。

④人間は、いつでも素朴自然主義の技術倫理を尊重するために、生命現象を外側から観察するだけで、その内部は憶測をめぐらすこともできないということ。

⑤素朴自然主義の技術倫理の枠組みの中で、生命内部の要素が他の要素から分離され認識され、あるいは置き換えたりする操作が行われるということ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》