【要約】
人の見聞のあらゆる事柄が学問の対象となり得るが、輪郭付けて示せる対象がない哲学の場合はどうか。一般的に学問では知る側の活動を消去して対象についての知識を得ようとするが、哲学では、問う人、答えを得る人が消去されることは決してない。したがって哲学における営みでは、諸々の一切と関わっている己との関わりにおいて何かを問う限り、対象が限定されないということになる。そして一般的に学問的活動においては、対象は知ろうとする人の向こう側に位置するものであるが、実はそのものに関してどのような事柄が知られるべきかという主題の設定には、知る側の動機が不可欠であり、また知識を行為に役立てようとする「己」が、知識の成立の背後で重要なものとして控えているものである。ところで問いのもっと日常的な在り方においては、その多くは行為そのものへと向けられる。そして行為を問うことは行為する自分を問うことへと発展する可能性を持っている点で哲学への要求を隠し持っている。行為に向けられた問いは、自分のために望ましいことを求めて発せられるが、時に私の行為の選択が、行為者としての私自身を揺り動かすものになる場合がある。それまで自明の存在であった自分自身を巻き込む、このような問いと共に哲学は生まれる。
【復習問題】
第五段落「私達は普通は知ることを他の事柄に従属させる」とあるが、それはなぜか。その理由として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから選べ(㊟解答は最下段)。
①普通、或る何か詳しく知られることが望ましいものがある場合、まず知ることを留保した上で、何のためにそれを知る必要があるかという問いを重視するから。
②知ることは何のためにかという在り方に照らして、どのものが詳しく知られるべきかということと、どのような事柄が知られるべきかが決定するから。
③学問的活動とは異なり、普通は、ある対象の知識の獲得が目指されるのは、知ろうとする側の人間が自分のために望ましい結果を得ようとするためだから。
④あくまで、普通の場合、あるものに関しての知識を知ろうとする人は、そのものと自分との関係を知ることを第一義とし、そのものの知識を重視しないから。
⑤他の学問的活動と異なり、我々の普通の生活では、対象に関する知識を得ようとする際に、必ず知ろうとする主体が必要とされるものだから。
【解答】
③