2014第2学期『現代文読解』第9講江藤淳「文学と私・戦後と私」要約&漢字解答&記述解答&復習問題

【要約】

私は日本の大学では、英語、英文学を学んだが、米国に留学してみると、私の英米文学に対する理解が、大学院に入りたての米国人学生にも及ばないことに気付いた。日常交際している米国人の気心が分からない人間に、小説の作中人物の気心が理解出来る訳がないのは明らかで、英米文学の研究に没頭する気にはなれなかった。結局、私は英詩を、返り点や送り仮名付きの漢詩を読むのと同じように、知的に理解していただけで、その本質を味わわずに、わかったつもりでいただけだった。英詩は彼らの伝統に属し、その伝統は私を異質の局外者として冷ややかにむかえるに過ぎなかったが、その結果、私は英米文学の片隅にとりついてうろうろしているだけの自分が滑稽に見え、途方に暮れていた。そんな折、私は世阿弥の『風姿花伝』を開いたのだが、私はそれに対し、確かにわかったという手応えを感じながら、深い感動を覚え、知らぬ間に少し涙さえ流したのである。能をそれほど見たこともなく、世阿弥についても通り一遍のことを知っているだけの私に、どうしてこのようなことが起こったのかを私は訝しんだが、それはこれが日本語で書かれていたからだと考えた。日本語は、私にとって自分の存在の核心につながる言葉であることに気付いたとき、『古事記』『万葉集』から今日に至る日本文学の持続は、引き受けなければならないある有機的な全体として私の眼の前に浮かび上がってきた。私は、『風姿花伝』から得た、名状しがたい喜びを手がかりにしてもっと古典に接しようと心に決めて日本に戻ったが、かえって日本ではそれは捉えがたいもののように感じられた。しかし現代の騒音の中からあの『風姿花伝』の一節が凜々と響くのを聞くとき、それが自分の一生を永遠という時間につなげる貴重な時間であるのを知る。

 

 

【問1】

ア途方 イ微妙 ウ輪郭

 

 

【問7】

世阿弥の『風姿花伝』を読んで、自分の血肉にひびく切実な言葉として、それをよく理解できたことから、日本語が自分の存在の核心につながる言葉であり、自分の現在は、古典の世界から永遠に続く伝統につながると感じたから。(㊟解答は最下段)

 

 

【復習問題】

本文48行目「古典とは私であり、私は現代に生きていながら同時に世阿弥の時代にも、近松の時代にも生きているから」とは筆者のどういう心情を述べたものか。次の中からその説明として最も適当なものを選べ。

 

①英詩の属する伝統と「私」の距離を思えば、世阿弥や近松との時間的距離は短い。

②世阿弥や近松の生きた過去は、永遠の時間と比べると現代からそれほど遠ざかっていない。

③外国語はあくまでも外側から移植された言葉であり、古典に対する違和感よりも大きい。

④古典の世界と自分は、日本語を介して日本の伝統に属しているのだという確信がある。

⑤今は「現代」であっても、やがてそれは「古典」になるという点で、その差は無いに等しい。

 

 

 

 

 

 

 

【解答】