【要約】
金水敏氏の説明によれば、日本語の受動文は、たんに「他者の作用を受ける」という受身の意味を表わすのみならず、それを受ける主体の感情や意志をも表現するための表現形式として発達してきたという。ならば、〈うまれる〉とは、たんに〈うむ〉という行為の結果として生じる客観的な出来事というよりは、産み落とされる側のその立場に身を寄せた表現であるといえ、必然的に産んでもらったという含意を強く持つことになる。しかし問題なのは〈うまれる〉を純然たる自動詞のようにとらえる現代人が、この点を忘れていることにある。そもそも〈わたし〉の存在はその出生の時点からして、与えられたものである。さらに生命維持にも他人の介助が必要であり、〈わたし〉の表情も他人によって分節される。しかも〈わたし〉は、他人の意識の対象となってはじめて存在できる。したがっていかなる他者にとっても関心の対象ではない存在になることは〈わたし〉が喪われたことと同意なのである。
【問1】アうと イ授 ウ看板 エうしな
【復習問題1】本文68行目「見捨てられる存在」とあるが、どうしてこのような存在が「もはや見捨てられる存在ですらない」存在よりも、まだましな存在だと言えるのか。50字以内で説明せよ。(㊟解答は最下段)
【復習問題2】本文中に「身を寄せる(寄せた)」という表現が何回か登場するが、筆者が考える対象に「身を寄せる」ことのできる条件は何か。本文中から適切な表現を10字以内で抜き出せ。(㊟解答は最下段)
【解答①】見捨てられる存在であるということは、他者に、まだ鬱陶しい対象として意識されていることになるから。
【解答②】
主体性を感じ取ること