2014第2学期『青木の現代文』第8講橋爪大三郎「はじめての構造主義」要約&復習問題

【要約】

言語が物理的な現象や物質的な根拠によって支えられたものではないことは、ソシュールの『一般言語学講義』にも記載されている。まず言語の指示する対象が物質的な存在であれば、対象の切り取り方が言語によって異なることを説明できない。ある言葉が指すものは,世界のなかにある既に区切られた実体などではなく、その言語が世界から恣意的に切り取ったものであり、言葉が何を指すかも社会的・文化的に決まっているだけである。だからこそ、物質のあり方とは独立に、言語のシステム(ひいては文化のシステム)を複雑化し、洗練していく途が、人間には開かれてるのである。また、言語は物理的な音声によって成り立っているように見えるが、言語を成立させているのは音そのものではなく、音の中にある区別である。どういう特徴を区別する(しない)かが、言語によって恣意的であり、言語にはこうした区別に先立つ実体はない。ソシュールは、言葉を「記号(シーニュ)=シニフィアン+シニフィエ」と表わした。これは記号=言葉が、記号システムの中で、それらが他のものとどういう対立関係にあるかによって、その意味(価値)が決まることを表わしている。シニフィアンとシニフィエは,互いに既存のものがくっついて言葉になるのではなく、シニフィアンという区別が、他のどのようなシニフィアンと区別され、また他にどのようなシニフィエと対立関係にあるかによって、その記号内容も決まることを意味している。つまり言語や記号のシステムの中には、差異(の対立)しか存在しないのである。

 

 

【復習問題】テキスト本文中に登場する「差異」の意味内容について、次の中①~⑤のから適切な説明を選べ。(㊟解答は最下段)

①もともとあった「もの」に言葉が名前を付けたのではなく、言葉による区別によって「もの」を作り出した。

②名前があってもなくても、「もの」は同じように見えるが、名前を付けることで、それは人間にとって実体となる。

③自由に言葉を使って考え、主体性を持って自分から行動、名付ける人間こそが本当の「人間」である。

④現実の「もの」と、あるものはこうあるべきだという「もの」の姿は、同じ名前でも区別しておく必要がある。

⑤ものが「もの」として存在できるのは、ひとえに言葉のおかげであり、それは常に普遍的な意味を我々に示す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【解答】

2014第2学期『現代文読解』第10講川本皓嗣「日本詩歌の伝統」要約&漢字解答&記述解答&復習問題

【要約】

正岡子規の写生をめぐる、外界の事物を素直に「ありのまま」に「詠み込む」という考え方、つまり外界の事物は、ただそれらを名指すだけで簡単に詩の中に取り込めるという見方は、文学一般、ことに詩に見られることばの働きについて大きな誤解を招く可能性がある。これは、ものの名前を詩人がいくつか呼び出すことで、ただちに詩の中に現実の一部を再現でき、その光景がおのずと「観る者」の心を動かすというものだが、本当は、そこにそうした効果を挙げるようにことばを選び、組み合わせる詩人の能力がなければ、それは不可能である。何度も使い古された表現に人々は意識を向けることはなく、そうした描写はただの符丁以上のものではないために、表現自体が読者の目に入らないだけでなく、描かれた対象も見えなくなる。そうならないためには従来の慣習やきまりを破るような表現が必要な点で、普遍的なリアリズム固有の描写表現や、その定式はない。結局は、斬新な工夫を凝らした「思いがけない語」こそが、読者の目に対象をまざまざと浮かび上がらせるのであって、対象に対する言語による描写の「客観性」の尺度から写実を語ることはできない。子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」の句が、「写生句」としてリアルに響くのは、永久不変の写実の原則に従っているからではなく、花を詠む際の伝統的な約束をあっさり無視しているからである。

 

 

【問1】

イ 固執 ウ 瞬時 エ 固有 オ 斬新 カ 異彩

 

 

【問3】

ものにはそれぞれ決まった名前があるので、外界の事物を名指せば、「ありのままの事物をありのままに」リアルに再現できる。

 

 

【問5】 子規の鶏頭の句は、写実の原則に従っていないからこそ、意表を突く表現になり、読者を刺激することで眼の前に鶏頭を何本もリアルに浮かび上がらせる点で高く評価できる。

 

 

【復習問題】次の文章の空欄①~⑤に当てはまる言葉を次の選択肢A~Oの中から選べ。(㊟解答は最下段)

短歌、俳句の世界は、明治20年代に至って近代化の動きが見られるようになる。そこでの革新者の筆頭は( ① )と言えよう。彼は、俳句では松尾芭蕉よりも( ② )を高く評価した。また和歌では( ③ )を尊重し、浪漫的な「明星」派に対抗して( ④ )的歌風を打ち立てた。長塚節(1879~1915 歌人、小説家。茨城県結城郡の豪農の家に生まれる。正岡子規の門下に入り、『馬酔木』『アララギ』に多数の短歌を発表した。30代前半に東京朝日新聞に連載した小説「土」は日本の農民文学を確立した作品といわれる。結核のために37歳の若さで夭逝)、( ⑤ )らはその門下生であり、ここに根岸派が結成された。

 

A 新感覚 B 万葉集 C 正岡子規 D 川端康成 E 小林一茶 F 河合曾良 G 伊藤左千夫 H 写生 I プロレタリア J横光利一 K小林多喜二 L西行 M与謝蕪村 N吉田兼好 O古今集

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【解答】

① C② M③ B④ H ⑤G

2014第2学期『センター現代文』第9講渡辺 裕「聴衆の『ポストモダン』?」要約&復習問題&漢字解答

【問1】

ア駆逐 ①逐一 ②増築 ③畜産 ④破竹 ⑤貯蓄

イ懸命 ①懸垂 ②保険 ③派遣 ④献身 ⑤兼行

ウ過酷 ①幽谷 ②克明 ③一刻 ④酷使 ⑤穀倉

エ繊細 ①宣誓 ②旋回 ③新鮮 ④元栓 ⑤繊維

オ発揮 ①机上 ②軌  ③指揮 ④国旗 ⑤機 

 

 

【要約】

かつては厳しく排除された断片的な感覚刺激を求める聴取行為が、作品の中に作者の個性や思想を読み取ろうとする「真面目」な聴き方を駆逐することで、十九世紀にもたらされた様々な「作曲家神話」のようなものは解体された後、生み出されもしなくなったが、現代はまた作品というテクストとコンテクストとの別の形での関わりが生じている。それは映像が音楽と共に与えられることで生み出される、作品に関わる架空のコンテクストが作品に新たに纏わりつき、またそれは映像の持つ圧倒的なインパクトと、その音楽との巧妙な結合によって引き起こされる強烈なイメージによって、新たな神話が作られていることを意味する。

 

 

【復習問題】本文80行目以降に登場する「捨象」の意味として最も適当なものを次の①~⑤の中から選べ。

①事物または表象からある要素・側面・ 性質をぬきだして把握すること。

②対象から注目すべき要素を重点的に抜き出して他は無視する方法。

③対象のあるがままの姿を眺めること。

④古いものが否定されて新しいものが現れる際に、その一部を保存すること。

⑤抽象的な思想などを、具体 的な事物によって理解しやすい形で表すこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【解答】

2014第2学期『センター現代文』第8講建畠晢「美術館のジレンマ」要約を兼ねた復習問題&漢字解答

【問1】

(ア)開催 ①催す ②災い ③砕ける ④裁き ⑤彩る

(イ)縛り  ①空漠 ②麦秋 ③自縄自縛 ④爆心地 ⑤暴露

(ウ)理不尽 ①迅速 ②尽力 ③人倫 ④退陣 ⑤神通力

(エ)擁護 ①中庸 ②使用 ③擁立 ④容認 ⑤動揺

(オ)陥る ①遺憾 ②敢然 ③歓心 ④陥落 ⑤突貫

 

 

【要約を利用した復習問題】

次の文章内にある空欄に当てはまる表現を以下の選択肢から選べ。(㊟解答は最下段)

【要約】

 一般的には美術館=展覧会という印象が強いが、そもそも美術作品の本来のありように照らせば、展覧会という鑑賞形式は不自然という意味で不思議である。元来、美術作品というものは、その自立した価値を個別に鑑賞すべきものであって、展覧会のテーマに見られる、作品自体の“外”にある基準に則して鑑賞されなければならない謂われはないからだ。それどころかそうした鑑賞形式下では、自立した作品の鑑賞を妨げ、その自立性を脅かしかねない。美術館は、たしかに作品を時の権力や宗教への奉仕から解放し、“芸術のための芸術”の安住の地となったが、その鑑賞形式の( A )ゆえに作品の自立性を脅かすというジレンマを持っている。しかし、たとえ美術館を否定し、作品を外に出すという方法で作品の自立性を回復しようとしても、結局は作品を路頭に迷わせるか、企業なり行政なりの新たな権力にモニュメントとして奉仕させるようになるか、またあるいは永続的な作品でなくしてしまうなど、結局は( B )という同じジレンマに陥ることになる。そういう点では、ジレンマさえ気にしなければ、美術館は作品にとっては居心地の良い空間と言える。こうした矛盾した存在が美術館であり、それでも近代的な使命として作品を市民に公開するということを遂行しなければならないのが、美術館の不可避的宿命である。そうであるからこそ、美術館の学芸員は、展覧会が自らの思想の表明であることを自覚しなければならない。展覧会は鑑賞者に、一定の文脈で作品を鑑賞させ、また鑑賞者を( C )にするからである。これは観客が学芸員の目のフィルターを通してしか作品に接することができないということであり、そういう意味で学芸員は( D )を有する。この点でやはり、美術館は作品の自立性を脅かす存在から抜け出せない、深く矛盾した存在であるが、その解消しがたいジレンマの中に美術館の魅力の源泉がある。モダニズムを象徴するアポリアとも言える、この矛盾の重要性に気づき、( E )べきであろう。

【 問1】空欄A.C.Dに当てはまる語句をそれぞれ一つ次から選べ。

➀普遍性 ②権力 ③象徴 ④博識 ⑤特殊性 ⑥苦行 ⑦文脈 ⑧奉仕 ⑨世俗性 ⑩ジレンマ

【問2】空欄B.Eに当てはまる表現を次からそれぞれ一つ選べ。

➀作品の自立を脅かす 

②作品を路頭に迷わせる

③作品を王侯貴顕の館へ戻す

④作品の我が儘を許容する

⑤作品を世俗に奉仕させる

⑥学芸員の名前を冠して責任の所在を明らかにしたような展覧会がもっと開かれる

⑦学芸員がいかに権力者であるかという自覚を持ち、その力をふるわないようにする

⑧学芸員が美術館の中で行っていることが、いかに恣意的で偽善的かが分かるような展覧会の開催をもっとする

⑨学芸員の立場を、もっとニュートラルに近づける努力をともなった展覧会の企画を行う

⑩学芸員が、もっと鑑賞者に対しても作品に対しても中立的で謙虚な気持ちになれるような、自らの名前を冠した展覧会を企画する

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【解答】

問1 A ⑤ C ④ D ②

問2 B ① E ⑥

2014第2学期『現代文読解』第9講江藤淳「文学と私・戦後と私」要約&漢字解答&記述解答&復習問題

【要約】

私は日本の大学では、英語、英文学を学んだが、米国に留学してみると、私の英米文学に対する理解が、大学院に入りたての米国人学生にも及ばないことに気付いた。日常交際している米国人の気心が分からない人間に、小説の作中人物の気心が理解出来る訳がないのは明らかで、英米文学の研究に没頭する気にはなれなかった。結局、私は英詩を、返り点や送り仮名付きの漢詩を読むのと同じように、知的に理解していただけで、その本質を味わわずに、わかったつもりでいただけだった。英詩は彼らの伝統に属し、その伝統は私を異質の局外者として冷ややかにむかえるに過ぎなかったが、その結果、私は英米文学の片隅にとりついてうろうろしているだけの自分が滑稽に見え、途方に暮れていた。そんな折、私は世阿弥の『風姿花伝』を開いたのだが、私はそれに対し、確かにわかったという手応えを感じながら、深い感動を覚え、知らぬ間に少し涙さえ流したのである。能をそれほど見たこともなく、世阿弥についても通り一遍のことを知っているだけの私に、どうしてこのようなことが起こったのかを私は訝しんだが、それはこれが日本語で書かれていたからだと考えた。日本語は、私にとって自分の存在の核心につながる言葉であることに気付いたとき、『古事記』『万葉集』から今日に至る日本文学の持続は、引き受けなければならないある有機的な全体として私の眼の前に浮かび上がってきた。私は、『風姿花伝』から得た、名状しがたい喜びを手がかりにしてもっと古典に接しようと心に決めて日本に戻ったが、かえって日本ではそれは捉えがたいもののように感じられた。しかし現代の騒音の中からあの『風姿花伝』の一節が凜々と響くのを聞くとき、それが自分の一生を永遠という時間につなげる貴重な時間であるのを知る。

 

 

【問1】

ア途方 イ微妙 ウ輪郭

 

 

【問7】

世阿弥の『風姿花伝』を読んで、自分の血肉にひびく切実な言葉として、それをよく理解できたことから、日本語が自分の存在の核心につながる言葉であり、自分の現在は、古典の世界から永遠に続く伝統につながると感じたから。(㊟解答は最下段)

 

 

【復習問題】

本文48行目「古典とは私であり、私は現代に生きていながら同時に世阿弥の時代にも、近松の時代にも生きているから」とは筆者のどういう心情を述べたものか。次の中からその説明として最も適当なものを選べ。

 

①英詩の属する伝統と「私」の距離を思えば、世阿弥や近松との時間的距離は短い。

②世阿弥や近松の生きた過去は、永遠の時間と比べると現代からそれほど遠ざかっていない。

③外国語はあくまでも外側から移植された言葉であり、古典に対する違和感よりも大きい。

④古典の世界と自分は、日本語を介して日本の伝統に属しているのだという確信がある。

⑤今は「現代」であっても、やがてそれは「古典」になるという点で、その差は無いに等しい。

 

 

 

 

 

 

 

【解答】

2014第2学期『現代文読解』第8講鷲田清一「死なないでいる理由」要約&漢字解答&復習問題

【要約】

金水敏氏の説明によれば、日本語の受動文は、たんに「他者の作用を受ける」という受身の意味を表わすのみならず、それを受ける主体の感情や意志をも表現するための表現形式として発達してきたという。ならば、〈うまれる〉とは、たんに〈うむ〉という行為の結果として生じる客観的な出来事というよりは、産み落とされる側のその立場に身を寄せた表現であるといえ、必然的に産んでもらったという含意を強く持つことになる。しかし問題なのは〈うまれる〉を純然たる自動詞のようにとらえる現代人が、この点を忘れていることにある。そもそも〈わたし〉の存在はその出生の時点からして、与えられたものである。さらに生命維持にも他人の介助が必要であり、〈わたし〉の表情も他人によって分節される。しかも〈わたし〉は、他人の意識の対象となってはじめて存在できる。したがっていかなる他者にとっても関心の対象ではない存在になることは〈わたし〉が喪われたことと同意なのである。

 

 

【問1】アうと イ授 ウ看板 エうしな

 

 

【復習問題1】本文68行目「見捨てられる存在」とあるが、どうしてこのような存在が「もはや見捨てられる存在ですらない」存在よりも、まだましな存在だと言えるのか。50字以内で説明せよ。(㊟解答は最下段)

 

【復習問題2】本文中に「身を寄せる(寄せた)」という表現が何回か登場するが、筆者が考える対象に「身を寄せる」ことのできる条件は何か。本文中から適切な表現を10字以内で抜き出せ。(㊟解答は最下段)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【解答①】見捨てられる存在であるということは、他者に、まだ鬱陶しい対象として意識されていることになるから。

【解答②】

主体性を感じ取ること

 

2014年第2学期『医系小論文』MEDICAL☆KING №5【解答のためのRIFERENCE】解答例

【解答例】

遺伝子検査の受検、遺伝子医療・サービスの利用、遺伝情報を調べる医学研究への参加が、検査結果によって健康保険や就職などにおいて不利益をうけるかもしれないということへの懸念から減少し、さらに研究そのものに対する社会の理解と協力も得られなくなる。その結果、病気の予防、あるいはより有効で副作用の少ない治療法、医薬品の開発、オーダーメイド医療の実現が困難になるから。

 

2014第2学期『センター現代文』第6講浜田寿美男「『私』について」漢字解答&要約&復習問題

【要約】

〈語ー文法〉的なことば観には、ことばそのものの持つ第一次的、本質的な対話性に目を向ける視点がないために、ことばが身体と接続する土俵も見えてこないが、本来、ことばは現実の身体無しにはあり得ないものである。また一方でことばには、身体がその生身で直接に生きる世界とは別に、ことばがそれだけで独自に開く世界があり、「ことばの宇宙」と呼ばれている。ことばはこのように身体に根ざしながら身体を超えるものであるという両義をその本性とするものである。

 

 

【問1】

 

(ア)系統  ①傾聴 ②渓流 ③経緯 ④啓発 ⑤系譜

 

(イ)臨場  ①人倫 ②林立 ③大輪 ④臨機 ⑤近隣

 

(ウ)鉛色  ①順延 ②炎症 ③縁故 ④亜鉛 ⑤高遠

 

(エ)紡ぎ  ①棒大 ②忙殺 ③感冒 ④解剖 ⑤混紡

 

(オ)縛られ ①起爆 ②暴露 ③捕縛 ④漠然 ⑤麦芽

 

 

【復習問題】テキスト本文94行目「その身体の位置を基点とする遠近法」とはどのようなものか。次の①~⑤中から最も適当なものを選べ。(㊟解答は最下段)

①現代や「ここ」を基点とする身体に対して疎遠なものと身近なものの混合体。

②現代かつ「今ここ」にしか生きられない私たちにとっての空間的・時間的限界。

③「今ここ」からしか見えない、現代特有の風景に慣れてしまった現代人の視点。

④現代や「ここ」といった時間的・空間的に限られた世界にしか存在できないはかなさ。

⑤身体が、時間的・空間的に縛られているために、かえって想像力によって到達できる世界。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【解答】