産業社会の確立にともなう大衆社会の成立以降、代用品、安価な粗悪品としてのキッチュは、普通の人間の日常生活を快適なものにし、センチメンタリティーと呼ばれる心地よい美的心情のありかたを人間にもたらした。しかし18世紀末以来、たんにそうした美的で主観的なセンチメンタリティーは、倫理的欠落として、断罪され、その美的心情をもたらすキッチュも、自制と自己表現の美学の欠落として非難されてきた。しかしキッチュとは「自存性の美学」に立つ芸術の代用品ではなく、「寄生の美学」に立つ、それ自体、独自の用途を持つ美的対象である点で、それを芸術を基準にして「えせ芸術」と非難するのは誤りである。また現実には、スヴニールや際物などの粗雑で単純なキッチュと「高級」な作品の間には、それほどはっきりした区切りもなく、その境界的な現象が認められる点でも、寄生の美学とそれがもたらすセンチメントは、それ自体、美的に非難されるものというよりは、われわれの人生にそなわったひとつの美的態度とするのが、公平な見方であろう。