2015第2学期『青木邦容の基礎→標準現代文』第1講山田登世子「贅沢の条件」要約&復習問題

【要約】

ブランド品はなぜ高いのか、その根拠を追究するうちに、自分のなかで「贅沢」という問題が浮上してきた。最初の関心は「経済的なもの」に近いところにあったが、それを超えて、贅沢そのものの起源と条件へと拡がっていった。しかしその探求は茫漠として定めがたく、立ち迷うことになった。そもそも贅沢とは何かという問いに対する答えは世代によって異なり、また贅沢と隣接する「豊かさ」も、必ずしも金だけでは計れないという認識がある。そうであれば、贅沢とはもはや「消費」ではなく、幸福論とも重なる。そして仕事から解放される時間が贅沢という人間がいる一方で、生涯現役であることに贅沢を感じる人もいる点で、それは生きがい論とも重なる。要するに贅沢論は、さまざまな「問い」をまねきよせ、さまざまな問題領域とインタークロスするのである。

 

《復習問題》

テキスト本文25行目「ポスト高度成長期に『真の豊かさ』が問われたことを改めて想起した」とあるが、どうして筆者はここで「『真の豊かさ』が問われたことを改めて想起した」のか、その理由として最も適当なものを次の①~⑤のうちから一つ選べ(㊟解答は最下段。スクロールして確認のこと)。

①贅沢が「経済的なもの」と不可分の関係にあることは否めない事実であるという点で、女子学生の贅沢に対する考え方を仕方がないと肯定しつつ、実際はもはや贅沢は「消費」で計れないという考えが自らの中に醸成されているのを感じたから。

②「豊かさ」は金だけでは計れないという問いは贅沢論と無縁ないことを熟知している「私」にとって、贅沢とは何かという問いに「お金を好きなだけ使えること」と答える女子大生に違和感を感じ、「真の豊かさ」を問うたポスト高度成長期に郷愁を覚えたから。

③筆者の贅沢に対する関心も、女子学生のように、最初は「金」と結びつくものだったが、「真の豊かさ」について考えた際に、必ずしも贅沢は富と重ならないことなどを、女子学生に教えなければならない強い義務感に、突然駆られたから。

④贅沢とは何かという問いに対する、「お金を気にせず使えること」というような無邪気な女子学生の回答をきっかけにして、かつて日本がいくら経済成長を遂げても、真の豊かさを得られず、それが金だけでは計れないことに思い至ったのを思い出したから。

⑤贅沢が、女子学生にとっては「お金のことを気にせず欲しいものをいっぱい」買うことだということを知るにつけ、現代では、実は贅沢はもはや「消費」の量で計れなくなってきていることを女子学生が知らないことに対して危惧を抱いたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《解答》