2013第2学期『青木邦容の現代文』第3講浜田寿美男『「私」とは何か』要約

《要約》

〈語ー文法〉的なことば観には、ことばそのものの持つ第一次的、本質的な対話性に目を向ける視点がないために、ことばが身体と接続する土俵も見えてこないが、本来、ことばは現実の身体無しにはあり得ないものである。また一方でことばには、身体がその生身で直接に生きる世界とは別に、ことばがそれだけで独自に開く世界があり、「ことばの宇宙」と呼ばれている。ことばはこのように身体に根ざしながら身体を超えるものであるという両義をその本性とするものである。

2013第2学期『現代文読解』第3講山崎正和「世界文明史の試み」要約&記述解答

《要約》

身体のあり方と運動の様式はほぼ同義で有り、その様式は19世紀、20世紀を通じて世界的に標準化されてきた。19世紀段階ではそれは主に生産労働の規格化を通じて行われたが、本来的に人間の身体運動は、そうした生産や実用の世界に限られたものではない。身体は外界に働きかけるだけでなく、自らの存在感を確かめ、味わうためにも運動するのである。その意味で身体は「する」身体の営みと「ある」身体の営みを持つと言える。20世紀にはこの身体の自己確認のための運動様式である、「ある」身体の自己確認の営みが、世界的な統一の趨勢に乗って文明の境を超え始めた。特にスポーツは、現実の目的連鎖に組み込まれることのない典型的な「ある」身体の行動として、野球やテニスやサッカーなど商業スポーツの影響や、オリンピックによって地球規模に拡大していった。そして21世紀の人類は、「ある」身体の全ての機能についての理想を共有し、その実現や成果を共に賛美することでも連帯しつつある。

問3 《解答例》

スポーツは、現実の目的連鎖を持たない非生産的、非実用的な行動様式を通して、自己の身体の存在感を確認して楽しむ営みだから。(60)

 

2013第2学期『青木邦容の現代文』第2講内田樹「街場の現代思想」要約

《要約》

「まだ割れないグラス」を「決して割れないグラス」よりも選択的に丁寧に扱う理由は、それが失われた時に私たちが経験するであろう未来の喪失感を想像的に先取りしているからである。同じように私たちの人生は、まるで「物語」のように、その個々の断片が「ほんとうに意味していること」は事後的にしか分からないが、それでも私たちが人生を楽しむことが出来るのは、やはり「私の人生」という物語を読み終えた未来の私を想像するからである。それは、私たち自身が人生の「クライマックス」や「修羅場」を迎えている時に、それらを迎えているという認識に至ることができることにも見られる。未来の時点からそれらを俯瞰するように眺めている自分を、やはり想像によって先取りし、「既視感」にとらわれているからこそ、私たちはそうした出来事の文脈的な位置づけをすることが出来るのである。

2013第2学期『現代文読解』第2講網野善彦「中世的世界とは何だろうか」要約と漢字&記述解答

《要約》

「日本は島国」という見方は、現在の国境をそのまま過去に投影したところに生まれる虚像に過ぎず、それは海の積極的な役割を顧みることがほとんどなかったことによるものだと考えられる。日本列島における人間の社会と歴史を、海に生きた人々から見直すことで、列島内部に存在した、様々な遍歴民の役割への追求に自ずと導かれもする。こうして「日本は島国」という俗説と表裏をなす「瑞穂国日本」という見方も、やはり偏った「通説」でしかないことが明らかになるのである。日本の社会には古くから、遍歴民の生活があり、それは定住的な農民とは異なるものであった。日本列島の諸地域を細かく結び付けて行くという点で、こうした遍歴民の役割は、日本の社会と文化に、無視しがたい意味を持っていたことは間違いない。

 

《問2》

a 妨げ    イ路傍 ロ模倣 ハ無謀 ニ防御 ホ妨害

b 偏った   イ過多 ロ形見 ハ変質 ニ返礼 ホ偏食

c 顧みられる イ過去 ロ顧問 ハ故意 ニ個別 ホ小手先

d 携わる   イ形勢 ロ提携 ハ休憩 ニ傾向 ホ掲載

《問7》

日本に古くからある遍歴民の生活を無視し、水田稲作を日本の社会の基礎とする見方から、あたかも日本には定住的な農業民しかいなかったと見なすこと。

 

2013第2学期『青木邦容の現代文』第1講芦原義信「街並みの美学」要約

西洋式ホテルと温泉観光ホテルとの対比から分かることは、日本人の「うち」というのは、空間領域的にとらえると「靴をぬいだ」空間のことを指し、西洋人のそれとは著しく空間意識の点で隔たりがあるということである。西洋人にとって「うち」つまり「内部」とは、建物内部のことではなく、個室の中を指す。家の中でも靴を履いて暮らす習慣を持つ彼らにとっては、家の内部は外部の延長上に存在するものとして認識されている。いずれにせよ、このような空間意識の違いがあることを意識しないでは、ある場所を内部と考える人と外部と考える人の間に、不都合や不快感をもたらしてしまう。日本はその内的秩序を整える伝統から、建築の外部に無関心であり、西洋はその外的秩序の考えから、家の中まで靴のまま入る習慣や、都市空間の充実という現象を生み出した。

2013第2学期『現代文読解』第1講内山節「『学び』の時間と空間の再構成」要約

日本では、近代化を何よりも優先する特殊な状況下で、欧米以上に近代的価値至上主義の社会を作り上げた。そこにはヨーロッパの近代精神史に見られる、「科学的な知の恐怖」ともいうべきものが見受けられず、ただ科学的知性が絶対視され崇拝される状況だけがあった。また個の確立という思想にしても、それは自己肯定と他人への批判の方法として使われるのみで、ヨーロッパの思想史上に見られるような、自己反省の契機とはならなかった。つまり、戦後の日本の社会が作り出した精神の習慣は、ヨーロッパ近代が生み出した精神を近代化に必要な部分だけを都合良く摂取し日本的なものに作り変えることによって展開されていたわけである。そのように近代的価値至上主義の社会を作り出す過程で、西洋近代の思想を摂取する際に、思想というものは本来的にローカルなものであることを日本は忘れてしまい、その結果、日本的な近代思想を、普遍思想のように語る問題点をも生み出してしまった。